ヒヨル そのほかのはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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昔、ある女生徒と交際をしていたことがある。すらりとせいの高い、脚のながい少女だった。いつもなにかを諦めている、こわいくらいに聡い少女だった。昔、伴侶がいた。数年前に結婚してそのすこしあとに離婚した。森鴎外とアイスキュロスがすきな、指のきれいなひとだった。いいひとだったのにねぇと母は懐かしむように言った。それが最期の言葉だった。雪の降るさむい夜に、まるで眠るように母は死んだ。
あなたはあのとき誰のことを言っていたのです。げっそりとほほをやつれさせ、目ばかりをぎょろぎょろと飛び出させた冬海は、全身を引きつらせながらのけ反ってわらう男に問いかけた。男は両手を振り上げて、なにかを抱き取るような仕草をしながら首を曲げた。その喉が痙攣している。へんに耳に残る、ねばついた嫌なわらいかただった。あああああああ。あなたは。あなたはあのときのひとですね。駅の前であのひととはなしていた。体育館裏であのひとを抱いていた。雨の中あのひとを傷つけていた。あああああああああああああああなたはああああああああのときのひとですね。ひとですね。耳を覆いたくなるような不快な声に鼓膜を焼かれ、冬海はしわが深く寄った眉間を指でおさえた。その指が得体のしれないあつさに細かく震えている。男は冬海を見ながら、血走った目をすうっとほそめた。あなた泣いていましたね。いませんでしたか。粘膜をびりびりと揺らす男の声に、にがいものが込み上げる。
あなたはなんですか。足を踏みしめると薄い船底がぎしりと鳴いた。誰ですか。私のことを知っているのですか。知っていますよ。男は首を百八十度ぐるりと回して冬海を見た。たとえばあなたが魚だったとき、わたしは子宮でした。あなたが背骨だったとき、わたしは青銅の鏡でした。あなたが氷河の一角だったときには、わたしはグリニッジの秒針でした。あなたが病んだ砂粒だったこともあるでしょう。そのときにわたしはビルの屋上にさびしく棄てられた空き缶でした。いかがですか。どうですか。あなたが生きていたときにはわたしは必ず生きていた。覚えていませんか。忘れてしまいましたか。冬海のこめかみが恐怖にさむくなる。ざわざわとひふの下を無数の虫が這うような、言葉にならない不快感が全身をざわりと包んだ。それは意思疏通が図れないがゆえの嫌悪感ではなく、もっと根源的な、ふるいふるい恐怖だった。
男は続ける。だからなんだと言いますか。わたしはこんなにあなたを見ていたのに。あなたを知っているのに。あなたをわかっているのに。男の言葉に、冬海はこめかみをおさえる。そこにぎりぎりと爪を立てる。ひふが破れて血が流れた。いたみは百万光年も向こうにあった。喉が砂漠のように干上がって、爆発する夜明けは血管を燃やした。深淵を覗けば、深淵もまたこちらを見ているのです。わたしはあなたの中に棲む。いつだってあなたの○○でいます。あなた愛していましたか。誰でもいい、わたし以外の誰かを愛したことがありますか。誰でもいい。誰でもいいのです。誰でもよかったのだから、誰だっていいのです。木野のうなじに歯を突き立てた、そのときには、もう終わっていたはずだった。永久に始まらないまま。ひとりぼっちのまま。わかっていた。知っていた。
ほほを血が伝い、船はゆらりとかしいだ。男は両手を広げ、背中から落ちて沈んだ。ぎしりと船が揺れる。ゆれる。へりに濡れたてのひらを押しつけ、冬海は水面をそっとのぞきこむ。そこには彼がいた。冬海を見ていた。彼は爬虫類の目をして、あの雨の日のようにゆっくりとわらった。にたり。にたり。
「わたしはあなたの中に棲む」
耳を聾する絶叫が、干上がった喉を引き裂いて溢れた。血が。血が。血が止まらない。男が手を伸ばす。体温のないぶよぶよの指先。その感触を知っていた。いつでも、彼を棲まわせていたのだから。泣いてなんかいなかった。ただ、わかっていた。知っていた。気づいていた。自分が孤独だということくらい。私はちゃんとわかっていただろう!愛してなんていなくても!男はしずかにわらって、水死人の腕で冬海を抱き寄せた。船から落ちてさかしまに沈む、そのずっと奥に火が燃えていた。愛してなんていなくても、わたしはあなたをひとりになんてしなかった。そうでしょう?
少女が学校を辞めたその夜、妻を抱いた。少女はいつもきらきらの爪をしていて、行為の前にはそれをひとつずつ丁寧に外した。加害者は孤独だという。孤独に耐えられなかったという。木野はくらい目をして冬海をわらった。ひどいひと。冬海はそれにはなにも答えなかった。木野は深海に咲き乱れる百合に似ていた。掃き溜めの鶴に似ていた。瓦礫に芽吹くみどりに似ていた。メロスのあかい心臓に似ていた。限りなくうつくしいものをからだの内に孕みながら、木野はそれを誰にも見せない。思えば木野を抱くときはあの頃ばかり思い出していた。どおりで孤独なわけだった。冬海はわらった。あいしていたとも。その声は火に飲まれて、やがて静寂にかすんで消えた。
翌日、冬海は学校を辞めた。サッカー部員も木野も、なにも言わなかった。冬海は最後に木野をそっと見たが、木野は地獄をたたえたくらい目で、ゆっくりと冬海から視線を反らした。これでいい。これで十分だ。なくしたことにすら気づかなかったのだ。せめてやわらかな彼女のひふを宝物にしよう。心臓で男がけたたましく吠えている。草合離宮転夕暉、孤雲飄泊復依何、山河風景元無異、城郭人民半已非。
木野の背中に浅ぐろくやせた指が触れる。さわらないで。気だるい調子で言った、そのからだが細ながい腕に包み込まれた。すきだよ、あき。わたしはきらい。木野はそう言いながら、その胸板にあたまをそっともたせかけた。いなくなって当然なのだ。あんなひと。あんなだめなひと。ひどいひと。わたし土門くんのこと世界で二番目にきらい。一番は。彼は問う。その言葉に木野は目を閉じた。きっと二度と埋まらないその場所を、惜しんだわけではなかったのだ。彼のてのひらがひふをすべっていく。別れを告げたのは乾いた街角だった。あのひとは亡霊のような顔で、それを黙って受け取って噛みしめて飲み込んでいた。愛していたなんて言わせない。梅雨はとっくに終わっていた。夏が枯らした花壇は死んだ。いつでもあなたの中に棲む。わたしはいつだってあなたの、






はいじんのひ
冬海とジキルと木野。
文天祥「金陵駅」より。
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木野とは三度セックスをした。本格的な梅雨に入ったために、校舎中がどっぷりとした倦怠に浸ってしまい、冬海の思考にはいつも雨のようにうすい膜がぴったりとはりついて邪魔をする。木野のうなじからはまだ未成熟な清潔な女のにおいがして、逆に冬海のくちびるからただようピースとコーヒーと消しがたい年齢を、いつも木野は眉をひそめてくさいと言った。お決まりのようにそのあとに、正義の笑顔を貼りつけて。花壇は重たすぎる曇天の放課後に、一度だけ手入れをした。隣で雑草をつむ木野は、不意にその華奢な肩を抱き寄せられても驚きもしなかった。ただ刺すような目で冬海を見て、言葉を待つばかりだった。きれいに耕して肥料をまいたあの花壇も、おそらくはこの数日の雨に腐り果てて流れ去っている。冬海のくろい傘の下で指を絡めるとき、雨に侵された脳裏には昔のことばかりが蘇ってそればかり辟易した。他に不足はない。
傘からわずかにはみ出た木野の肩が霧のような雨に打たれ、ブラウスを吸い付けて下着の線を浮かせている。傘を傾けようとした冬海の手を、木野がそっとおさえた。いいの、先生。通学路からも国道からも外れた、自転車ばかり通る裏道で、ふたりで並んで言葉少なに歩きながら冬海はすこしわらった。ごむのかっぱをぴっちり着こんだ自転車が、しゃあっと水溜まりをはね上げて追い抜いていく。ふと見下ろした木野のソックスの足首が、雨水と泥はねでぐずぐずに汚れていた。日々降り続く雨のために、屋外の部活はほぼ強制的に活動中止を余儀なくされている。グラウンドが使えないために生徒は鬱屈を抱えて校舎にたまり、それがますますべたつく梅雨の気だるさに拍車をかけている。ジャージ姿で校舎の階段を上から下まで何往復もしていた円堂を、木野は止めなかったらしい。だって無意味です。それがどのような意図で放たれた言葉なのか、冬海は図りかねて結局問うのをやめた。ストイシズムが嫉妬にも似ていることがばかばかしい。天性のまっすぐさを、毒に感じる人間だっているのだ。冬海のように、あるいは、木野のように。
木野の手がふと冬海の袖をつかむ。顔をあげると、数メートル先の電柱のわきに、こちらを向いてひとりの男が立っていた。雨足がだいぶ強くなっているにも関わらず、傘もささずにずぶ濡れのまま、たったひとりで立ち尽くしている。冬海はかばうように木野の肩を抱き寄せた。それと同時に、男がゆらゆらと歩き出す。傘にかくれて顔は見えないが、上半身をぐらぐらと揺さぶる独特の歩き方をしていた。冬海もゆっくりと足を進める。木野の体がこわばっていた。きれいなお嬢さんですね。すれ違いざまに突然傘を覗きこんできたその男に、木野は喉の奥でちいさく悲鳴を上げた。なんですか。手で立ちすくむ木野を後ろへやりながら、冬海は傘を持ち上げて男の顔をじっと見る。爬虫類じみた奇妙な目をしたその男は、ぼたぼたと身体中からぬるい雨水を垂らしながらと冬海にわらいかけた。けものが威嚇するように、にたりと。
わたしもこの子と寝てみたい。いくらですか。はぁ?あなたはいくらで彼女と寝たのです。私は。きれいなきれいなお嬢さん。木野に差し伸ばされた手を冬海は払った。驚くほどつめたいひふをしたその手で、男はゆっくりと顔を拭う。いつまでならいいのですか。きれいなお嬢さんあなた、いつまでこのひとと寝るのです。飽きるまでですか。そうなさい。木野は目をまるく見開いて、それでもじっと男をにらんでいる。汚濁を飲んだきれいなお嬢さん。男は再び指を伸ばし、今度は木野のしろいほほに触れた。そのとたん、弾かれたように男はのけ反り、奇妙に首を曲げた。振り落とされた雫が雨に消える。草合離宮転夕暉。孤雲飄泊復依何。あああああああ。あああああはははははは。悲鳴とも笑い声ともつかない音を立てながら、男はぐりんと首を動かして冬海を見た。あのひとはどうしました?あなたの愛したひとは。今はどこにいるんです。もう忘れましたか。忘れましたか。忘れましたかああああああああああああああはははははは。
男はそのまま、声を上げながら行ってしまった。ぐらぐらとからだを揺らし、あさっての方向をぎろぎろと眺めながら。心臓が速い。知らず知らず詰めていた息をそっと吐くと、後ろでちいさく息を吸う音がした。木野さん。冬海が振り向くと、木野は両手で顔をおおってうつむいていた。木野さん。ばさりと手の中から傘が転げ落ち、冬海はそっと両手で木野のぐしゃぐしゃに濡れた肩に触れた。やわらかな髪の毛を雨粒がいくつもすべり落ちていく。肩は震えていない。木野さん。再度呼び掛ける声を、先生、と木野が遮った。(汚濁を飲んだきれいなお嬢さん。)言わないで。木野はきっぱりと言った。涙にすら濡れていない声で。愛してるって言わないで。冬海は言葉を飲み込んだ。レンズを雨がいく筋も伝う。その日も結局セックスをした。木野の目が何度も冬海を刺した。汚濁を飲んだきれいな木野。それに気づかないふりをしながら、昔のことばかりが蘇って辟易した。鼓膜にこびりついた絶叫を鼓動で削ぎ落とし、這わせた指が脳からわなないた。聖杯はありとあらゆるもので満たされていた。他に不足はない。






マザーハーロットの聖杯
冬海と木野とジキル。
屋上から応援部の鳴らす太鼓の音が、どおんどおんと気だるく響いてくる。その音がかすかに、薄皮でもかぶせたように濁っていたので、明日はたぶん雨だなと思った。先生。まるでその思考を見透かしたように、昼休みが半ばすぎた倦怠うずまく職員室の扉を、そっとひらいて木野が顔を出す。机の上にぶちまけたままの成績資料を、冬海はいかにも大層に片寄せた。これにハンコくださいと体育館使用許可証を差し出す木野からは、おそらく化粧もしていないのに女生徒特有の甘ったるいにおいがする。梅雨に片足を突っ込んだ職員室に立ち込める、湿気った木と埃とコーヒーのにおいとはほど遠い。なまなましくやけに艶っぽい、生命のシズルめいた欲深いその感覚。自己嫌悪が指先をちりつかせ、だからなにも言わずに冬海はそれを受け取った。いつかのことを思い出す。
引き出しから部活動の月間スケジュールを取り出してぱらぱらめくる。今月と来月の体育館はすべて先約で埋まっていた。木野はそれを覗きこむこともせず、傍らに行儀よく立っている。その全身からふりまかれる甘やかな憂鬱が、開けたばかりの缶コーヒーの地獄のようなあつさくろさを簡単に駆逐していって腹立たしい。からだの前で組み合わせた指にはかすかに疲労がにじんでいた。しろくほそい首筋に、やわらかな髪の毛が一本はりついている。今月は使えません。冬海はバインダーを閉じてきっぱりと言った。業務連絡にはこのくらいが似合う。このくらいどうしようもないくらいが。廃部同然のサッカー部は、ただ書類とそこにすがり付くかすかな火だけでずるべたと生き長らえているようなものだ。瓦礫に水をやるような木野のやり方を、たぶん昔ならうつくしいと思っていた。
書類に形ばかりサインをして手渡すと、携帯がかばんの中で震えてその音がやたらと耳についた。あの、失礼しました。そう言ってあたまを下げる木野のしろくしなやかな腕を、咄嗟に冬海は取っていた。え?木野の澄んだすずしい目が、地獄をたたえて冬海を刺す。鼻腔を若さと甘さとやわらかさと清廉さが満たした。もう冬海にはなにひとつ残っていないものだ。望んでも二度と手に入らないものだ。なんですか、先生。木野はわらっている。鼓膜には羽虫の飛ぶような、いやらしい振動が変に濡れて響いてくる。花壇の手入れを頼まれています。心にもないことを口走る自分に、冬海は驚愕し呆れ果て、そしてわらった。どうにでもなるか。手伝ってくれませんか。いいですよ。木野はわらう。放課後は部活なんですけど。欠席してください。わかりました。木野はさらりとうなづいてみせた。しろい首筋に、今度は蚊がぽつんとはりついている。ああそれと。
「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ませんか?」
木野はまばたきをして、すこしだけかなしそうな顔をした。わたしには答えられません。先生の言いたいこと、よくわからないんです。困ったような表情の奥に、かすかに侮蔑と享楽がゆらいでいる。そのことに背中をあわ立てながら、どうしますかと冬海は再度問いかける。木野はなにも言わなかったけれど、やっぱりちいさくわらった。太鼓の音はいつの間にか止み、鼓膜には雨の音ばかりが地鳴りのように響いていた。携帯はもう鳴ってはいない。わたし、〇〇じゃないんですけど。先生はそれでもいいんですか。しろいひふにわずかに爪を立てて、喉からせり上がるなにかを冬海はごまかす。わらうばかりの正義をやめて、冬海のてのひらの中で、くらくさびしい目をした木野はかすかにその腕をよじった。地獄をたたえた絶望の目よ。それが嫌悪なら、なにもしなかった。もしもそれが、嫌悪だったなら。
指先で蚊を追ってやった。着信履歴は非通知であった。いつかのことを思い出す。コーヒーが冷めたので全部捨てた。






ツィツィミトルの花束
冬海と木野。

ピースが指先でじりじりと燃えている。灰の根元に、あかいうっすらとした涙のような火がひかる。紙巻におもちゃの指輪をはめたみたいなそのくっきりとした境界が、くすんだ灰をやわらかに広げながら指の肉に迫ってくる。ひとくち飲み残したコーヒーの口にそれをこそげるように摺りつけると、まるであっけなくしゅう、と煙がひとすじのぼった。喫煙者は生きにくい世の中になってしまったとテレビの中で誰がしかが言っていたが、それは間違いだ。どこにだって例外はある。破ればそこに抜け穴ができる。まつ毛に湿気がおもたく乗って、それがいやに心地よかった。曇天に虚無を積み上げて、ひまわりを咲かせる手前の夏が駆け足で脳裏を行き来する。もうすぐ雨だ。髪の毛の根元が汗でゆるむ。ため息を吐くと融け切らず、どこへもやり場のない感情だけが眼鏡をうすく曇らせた。もうすぐ雨だ。吸殻をコーヒーの缶に飲み込ませ、冬海はゆっくりと腕を伸ばす。
彼は奇抜な男だった。柔和な表情の中に、目だけが異質に(雑誌や新聞を切り抜いて貼り付けた、ありがちでお粗末な脅迫状のように)狂人めいてざらついていた。やわらかにしゃべりかける相手校の監督に手を握られながら、このジキルという男は舌のながいひとだなと冬海は思った。生徒たちはじりじりとした試合を続けている。視線をすこしななめ下に動かすと、汗の伝うやわらかなしろい首筋が飛び込んできた。マネージャーの少女の髪の毛が、すべらかなひふにぺたりとはりついている。ああ彼の目は爬虫類のそれに似ているのだなと思った。その聖域から目をそらしながら。長距離をはしると口の中にりんごの味がしますね。昔生徒の誰だったかに言われたことがあった。ああたぶんそれは血液の味なんだよ。長時間続く有酸素運動のときには心配活動が活発になって、肺の中の毛細血管がいつもより速く血液を循環させる。そのときに肺を流れる血液中のヘモグロビンが肺から匂ってくるんだ。長距離はその性質上冬に行われることが多いんだけど、その時期は空気が乾燥してるからね。気管支が弱い人なんかは粘膜が乾燥して軽い出血をすることもあるらしいよ。それはいつごろのはなしだったろうか。フィールドを挟んでジキルが妙に粘着質な視線をよこしてくる。ますます爬虫類に似ていた。ぞっとする。
次に意識を切り替えると生徒たちがグラウンドの真ん中で喜んでいた。ああ勝ったのか。冬海は腕時計を見下ろした。いかにも時間の無駄遣いだ。ヘモグロビン。マネージャーがふっと視線を持ち上げた。彼らにたくさん水を飲ませてあげなさい。マネージャーは変な顔をして、あいまいにうなづいた。あなた先生ですか。声を枯らしたジキルがにたにたわらいながら寄ってくる。ぼくもね、教師なんです。いいですよね、学んだり教えたり威張ったり諂ったり増長したり卑下したりわらったりおこったりかなしんだりくるしんだり、たくさんたくさんできますものね。ジキルは奇妙な角度で首を曲げたり伸ばしたりしながら、もう数学は教えないのですか、と言った。その目がぎろぎろと動いている。あなたはなにを。ぼくですか。ジキルはくちびるを般若のように裂いてわらいながら言った。ぼくは生と死を教えます。聖と詩を教えます。静止と精子を教えます。あなたにはそれが必要なようだ。やめてください。冬海は携帯を取り出した。迎えを呼ぶ。ひまわりは今年咲きますか?ジキルはわらっている。
ピースの箱をポケットから取り出して、それをジキルに差し出した。ジキルはそれを叩き落として、かかとでにじりながらありがとうございますあなたはできたひとだとわらった。狂人だと冬海は思った。もう二度とかかわらないようにしよう。マネージャーのしろい首筋に、今度伝うものが絶望でも涙でも涎でも精子でも、冬海はかまわない。なにも言わない。煙草はもうやめる。もうすぐ雨だろう。ひまわりは咲くか。咲いたら供えよう。父はいない。母は一昨年他界した。




フラッシュ☆バック☆コメンテイター
冬海とジキル。

四月のころのはなしだ。
はじめて使う理科室で器具の説明を受けていたとき、ひとりの生徒が立ち上がって窓際へ行き、フラスコを伏せて並べていた木のラックを掴んで引き倒した。そこに背を向けて着席していた数名の生徒は口々に悲鳴をあげながらそこを離れ、当の本人だけが目障りな帽子のあたまを左右に動かしてなにかを探しながら、破片をぐしゃぐしゃに踏みつけて窓によじ登った。彼はそのままするんとベランダに出ていってしまい、呆気にとられた理科教師がようやく白衣をひるがえして彼を追うころには半田はすっかり冷めていた。不安そうな顔を見合わせる近くの連中にぼんやりと視線をすべらせながら、肩ごしに空っぽの座席を振り向いた。あれガイジかな。近くからひそひそと声がする。一年のときもあんな感じだったけど。あたまいかれてんな。おーいと半田はそっちを向いてにっとわらった。先生くるよ。彼らは気まずそうな顔をして口を閉じた。理科教師はすぐに手ぶらで戻ってきて授業をなにごともなかったかのように始めた。そのときに取り残された彼のペンケースと携帯を、半田が教室まで運んでやった。それだけのはなしだ。
目障りな帽子は松野という名前で、たまたま出席番号が前後だったというそれだけの理由で、やたらと半田は振り回された。松野がなにかするたびになぜか毎回半田が呼ばれ、退部のもめ事やら元カノとのいざこざなんか、間に入ってだいぶ片付けてやった。松野はいつでもおおきな目を見開いて、すこしでも興味があることがあればためらわずそちらへ行ってしまう。授業中でも関係なく、松野はお菓子と携帯を手放さない。望まないままに仲良くなってしまっただけでなく、半田はいやに松野になつかれた。そしていつの間にか、松野が教室を出るときに一緒に連れていかれるまでになった。まぁ嫌じゃねーけどさぁ。勝手に作った鍵で忍び込んだ屋上でPSPで狩りをしながら、半田はぼそりと問いかけた。おまえって、なに考えてんの。あーん?屋上に大の字にひっくり返ったまま、松野がうっとうしそうに半田をにらんだ。そのまま跳ね起きて、松野は半田のこめかみを思いきり突き飛ばした。うわっちょ、なにやってんだよ。松野はひゃっほーと奇声を上げながらフェンスに取りついて、ぐやぐやとなにかを歌い出す。もう意味わかんねーなと半田は電源を落とした。
松野は嫌なやつではない。いつでも真剣で、どんなふざけたことでも全力でやってのける。それが周りにはちょっとあれな感じに映るわけだが、半田は別にそれがどうとか思っているわけではない。よう半端。中身なんか入っていたためしのない通学かばんを振り回しながら(もちろんぶち当てられる)松野が寄ってくる。今日さー学校さぼんね。あーと半田はちょっと考えた。部活だ。ぶかつぅ?半端部活なんかやってたっけ。やってるよ一応。携帯を取り出して時間を確認しながら、いいよ、と半田は言った。さぼるか。じゃ電車乗るべ。目的地あんのかよ。ねぇ。なんでもいいけどはやく行かないと円堂がここを通る。もうどうでもいいことだったけれど。松野はかばんを肩にかけて、通学する生徒の群れを逆流していく。半田はそれに無言でついていった。円堂は通らない。松野の帽子のカラフルな耳垂れがぶらぶら揺れている。
下りの電車はラッシュのすき間で、へんに静かに疲弊していた。松野は七人掛けのまんなかに足を開いてどっかりとすわる。おまえなに部。サッカー。サッカーって廃部なりかけだろ。松野がひひっとわらった。ガスの音とともに扉はしまり、ながい虫のような電車はゆるゆると走り出す。おもしろいの。あーと半田は首をそらした。おもしろいっけ。おれさー野球もバスケもテニスもつまんねかったんだけど。松野はいろんな部活を転々として、そして行く先々でもめ事を起こして退部、をばかみたいに繰り返す。サッカーは全然興味ねえわ。あーそう。あれ怒んねぇの。松野がにやにやしながら半田の顔をのぞきこむが、半田はそれを無視して視線を虚空に投げた。部活欠席のメールはもう送っていた。返信が来ない。円堂つーのがキャプテンなんだよ。バンダナのやつだろ、知ってるよ。そらした後頭部が窓がらすに触れた。円堂があのとき通っていたら、今ごろ電車には乗っていなかった、と思う。あたまがまるく冷えて、だけどサッカーになんてうんざりしていたはずだった。とうに。
もうすぐ夏休みだねと松野はポケットからチュッパチャップスを取り出して包装をむいた。女連れて海いこーぜ。女ねぇ。おめーの彼女わりとかわいいじゃん。別におれはそういうのいいよ。海は行くだろ。めんどくせー。部活あるしって?あー部活はあるけど。半田はがりがりとあたまをかいた。夏休みなんか一生来ないような気がする。こんなところで足踏みしてるんだもんな、当たり前だよな。そんなことを考えながらちょっとわらうと、きめぇと松野が即座に言った。つかどこ行くんだよ。しらね、行けるとこまででいんじゃね。松野のしろい歯が飴をかみ砕く。サッカーになんてうんざりしていた。そのはずだった。おまえサッカーやってみれば。半田の言葉を松野は無視した。今びじつやってるって。いつの間にかその指がメールを打っている。半田の携帯に連絡は来ない。夏休みがいつまでも来ないのとおなじだろ、そう言ってくれ。
六月のころのはなしだ。






ハローミスタガスパール
半田と松野。
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