ヒヨル そのほかのはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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朝起きると水差しの水がすべて床にこぼれていて、そのおもてにうっすらと埃を浮かばせたまま、カーテンからほそく射しこむ朝日に揺らいでいた。ときどきこういう不気味な出来事が起こり、そういうときにはだいたい朝から自失しかけている。薄い意識の膜のようなものがぶわぶわと外から内側に向かって脳を押してくる、その感触が鈍痛になってぎりぎりと眼球を押し上げるのだ。ベッドからすべり降りるはずみでびしゃ、と素足でその水たまりを踏みつけた。はね上がった水滴が足首を濡らした、と気づいたその瞬間に彼の両の指がカーテンを鳥の爪のように掴み、そのままレールごとそれを引き剥がしてしまう。鼓膜にめきめきと嫌な音がいつまでも響いていることが不愉快だ、と思った次の瞬間には床にはたきつけられたカーテンレールが無力なカポーテのようにだらりと広がった。埃の浮かんだ水を吸って、カーテンが血痕のように色を変える。と、それを見届けたとたんに意識がにじんで彼とひとつになった。
「地木流」と「灰人」というのは意識の上での別人であり、定義的にはひとりの人間のうちに棲む異なる人格(と思われているもの)だ。「地木流灰人」には「地木流」を含む「灰人」、「灰人」を含む「地木流」、「地木流」を排除した「灰人」、「灰人」を排除した「地木流」の四人が存在していて、どれが本当の「地木流灰人」であるのかは厳密にはわからない。たぶん彼にもわかっていない。彼は光であり影でもあって、それと同じように自分もまたひとつの肉体に寄り集まった光であり影なのだ。彼は自分であり、自分が彼である。彼が肉体にいるときは、自分は胎児か悪腫のように彼の意識にへばりついているか、あるいは全く別の場所にいるか、している。別の場所というのは彼の意識とも肉体とも隔離されたところで、そこにいる間のことは実は自分にもよくわからない。記憶はその部分だけぽかりと空洞で、次に覚醒したときにああまた彼と離れてしまった、と嘆く程度にはそのことを絶望している。
ひとつの肉体にふたつの意識を棲まわせている弊害は特に感じない。感じていないだけで、たぶん周囲にはいらない気を遣わせているのだろう。教え子はみなかわいい。彼らを見ていると人生を考える。うつくしいものとはかないものについて考える。「灰人」は「地木流」をほとんどの場合で意識のどこかに浮かばせているが、「地木流」は「灰人」をときどき遠くへ切り離しておいてしまう。「地木流」は「灰人」を心から愛していて、「灰人」のことをひとつの肉体に鏡のように存在する隣人としてではなく、一個のからだを持った別の人間として会いたいと願っている。しかし「灰人」にとって「地木流」がどういう存在であるのかはよくわからない。もともと「地木流灰人」に棲んでいたのは「地木流」であり、「灰人」は彼の副産物だった。うつくしいものとはかないものについて考えるとき、「地木流」の意識はいつも「灰人」にゆきついてそこから進めなくなる。もう何年も。
彼とひとつになったときに、彼の意識がひどく不安定であることに気づいた。レーズンウィッチのバタクリームとクッキーのように、本来ならばぴたりと張りつけるはずのそこが嵐のように波立っている。ひとつになったときには記憶や思考を共有できるのだが、癒着している面がざわざわと落ち着かないためにうまく情報が流れこんでこない。仕方なしに何度か名前を呼んでやると、彼はとろとろと鎮静していく。バタクリームを挟むクッキーのように、いつも通りにそこにからだ(肉体的な意味ではなく)をおさめて改めて流れてくる思考を読もうとしたら穴だらけでノイズがひどい。からだを引き離そうとしたらずぶりと膜の中に飲み込まれた。彼の支配下なのだ。意識に沈むのは、やったことはないが潜水のようなものだと思う。泡の代わりに耳をなぜるのは彼の記憶と思考だけだが。しばらくからだに戻っていなかったので、黙って穴だらけの思考を眺めていたら唐突に肉体へ押し出された。足の裏がつめたい。
彼が死人のようなひふをしたこのからだを動かしているのを、病巣のようにただ見守るだけがいい。彼の思考は断続的で、唐突で、錆びだらけのナイフみたいだ。ぽつりぽつりとそれらのことばを受け取っているうちに、またざわざわとからだ(肉体的な意味ではなく)が波打つのをどうしてもこらえきれなくてすうっと意識から離れる。彼は鏡の前に立って、泣き腫らした目におののいているころだろうか。死人のような指で、いかにも億劫に顔を拭う彼のことを思うとどうしたらいいのかわからなくなって、結局はこうやって自分から接続を切り離して遠くへゆく。彼が動揺した。うつくしいものとはかないものと彼はジイザスクライストの父と子と聖霊みたいにそれで完成されたひとつの価値である、ことを、行き止まりでどろりと澱になりながらぶつぶつと考えている。そうしている方がずっと彼のことを近くに感じられるし彼とは決して会うことができないのだということを、理解できるような気がする。
『地木流』
『放っておいてもいいのか』
そのことばにうなづくことも喜ぶこともできないくらいには灰人を愛している。灰人をこんなにも愛している。おおジイザスクライスト。来世には我らをあだんとゑわに生み、じゅすへるを以て世界へと追放したまえ。わたしは生まれる前からそのときを待っている。何年も何年も、ずっと。
『灰人』
『愛しているよ』








少女廃人と這い寄る混沌
地木流灰人。
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があん、とどこかに落ちた雷がキャラバンの窓をびりびり揺らす。東京から一路福岡へ向かう、その途中で一同は豪雨に見舞われていた。ががっとしろい稲光が空を切り裂き、どんよりと垂れ込めた雲のかたちを一瞬くっきりと浮かび上がらせる。車内はひどく結露し、なにげなく四指で窓の表面をなでると、そこから水滴がだらだらっと涙のようにこぼれた。その落ちかたが生々しくて途端に、後悔する。濡れた指先をもてあまし、結局手の中に指を握りこむみたいにして乾かしてしまった。ワンセグもさっきから砂嵐だ。途切れ途切れにナルトが見えるが、静止画の半ばを砂嵐に食いつぶされる画の連続が、ぶつぶつこまぎれにされたセリフと一緒に届いてくるようなひどい映像だった。目がわるくなってしまう。キャラバンの中は静まり返り、ときどきさざ波のようなひくくほそめた会話が聞こえてくるくらいだ。早々に寝入っているものも少なくはない。しずかな呼吸が澱のように足元を渦巻く。
目金は結局それ以上先を見るのを諦め、なるべくしずかに携帯を閉じる。隣にちらりと目をやると、通路側のひじ掛けにけだるくほおづえを突いた栗松の、耳からのどにかけてのあおじろいひふが見えた。呼吸のたびにわずかに収縮し、その下をあおい血管がぞろぞろと這う栗松のひふ。そっとその肩をつかんで揺さぶると、栗松はあからさまにびくりとあたまを揺らし、それから驚いたように目金を見た。どうやらとろとろと眠りかけていたらしい。びっくりした、とだるそうにつぶやく、その声がかすかに嗄れていた。なんですか。ひまです。しらねーーーよーもーー。栗松は心底あきれ返った調子でうんざりと言い、じゃあもう寝ればいいでやんすよと続けた。どうせしばらく着かないでやんす。まだ眠くないんです、なぜなら昨日ちょっと寝すぎたからで。だからしらないって。栗松はうっとうしそうにごりごりとあたまを掻き、深い息をついた。
じゃあせっかくなんでひと勝負、と目金がDSを取り出すとええーーーと栗松は首をそらした。なにがじゃあせっかくなんでだよもーいやですよボッコにされるの。わかりましたわかりました、じゃあ伝説禁止!あと、ぼくはレベル50縛りでいいですから!うえーもー一回だけでやんすよ。そう言いながらしぶしぶDSを取り出す、そのしぐさがひどく緩慢でおもたい。後ろから穏やかな呼吸がみっつ聞こえてきて、それは壁山と壁山に絡んだまま寝てしまった円堂、それから最近どうも壁山がお気に入りらしい木暮のものだ。うんざりした顔の栗松の、その目の周りが妙にくろずんで落ちくぼんでいる。疲れてますね。DSの電源を入れた途端に、ばらばらばらばらっとすさまじい音を立てて雨がキャラバンの窓を打つ。うん、と栗松は首をひねった。そんなことじゃだめですよ。栗松はかくんと首を落とすようにうなづく。大丈夫ですか。そう言うとかすかにわらう栗松のくちびるが、しろく乾いてひび割れていた。結局その日も目金が勝った。
栗松は愛媛での対戦を終えたあたりから、こうやってひどく疲れた顔のまま、キャラバンの道中はとろとろと浅い眠りと覚醒を繰り返している。数時間に一度の休憩のときには、トイレでときどき吐き戻してもいるらしい。よれよれに憔悴した栗松の、その背中はひどく痛ましく見えて、奇妙な躁状態にあるような他のメンバーとすれ違う姿は幽霊さながらだった。以前、パーキングエリアで栗松がふらふらとあるいている前を、ふさふさのしっぽを揺らしたパピヨンが横切ったことがある。あっと声をあげ、目金は後ろから栗松の肩と二の腕をつかんだ。あぶない。栗松はからだをこわばらせ、ひっ、と短く呼吸をした。ふさふさのしっぽを揺らしたパピヨンと、その飼い主の恰幅のよい女性がごめんなさいねえ、などと言いながら通りすぎるのを、ふたりはものも言わずに見送る。栗松がなにを考えていたのかはわからないが、目金はそのとき、心の底から震撼していた。思わずつかんだ栗松の肩は指が骨のすき間に沈むほどごりごりに痩せていて、ジャージ越しの二の腕は目金のてのひらにすら余るほど、ほそかった。いつから。こめかみの辺りがどくどくとわめく。うまく言葉にならない動揺が、目金ののどを野火のように焼いた。
栗松はいつまでも手を離そうとしない目金をいぶかしんだのか、肩越しに振り向いて先輩、と呼んだ。不審な目と声の調子に、目金はあわわと弾かれたように両手を離す。突き放されたみたいな格好になった栗松はちょっとよろけ、軽く肩を揺すってから振り向いて、どうも、と言った。愛嬌のあるまるい目が、どっぷりと疲労に濁っている。ぼく。目金はせわしなくジャージをぱたぱたと叩いた。のどが渇きました。は。なのであなたにも一杯おごりましょう!うーんぼくってやさしいなぁ、と無理やり目金は栗松の手を取る。ちょ。戸惑う栗松よりももっと、目金は戸惑っていた。握った栗松のてのひらは、日照りの畑のようにがさがさに荒れて、乾いて、くたびれていた。どくどくとどくどくとこめかみで心臓がわめいている。どうして。どうしてどうしてどうして。
栗松。後ろの席から壁山の穏やかな声がした。まだ起きてる。うん。はやく寝るっす。しっかり寝ないと、もたないよ。うん、と栗松はうつむき、ぱたんとDSを閉じた。スニーカーを脱いで脚を上げ、シートの上で膝を抱える。そこに額を伏せて、それだけで栗松はもう周りを寄せつけない。まるで絶望の中でくるくると泳ぐ、ひとりぼっちのさびしい胎児みたいに。ひどく心細くなって、目金はふたたび栗松の肩をつかんで揺さぶった。栗松は声も上げない。反応もしない。膝を抱く枯れた指が、疲れはてた様子でわなないた。先輩。栗松が顔を伏せたままひくくささやく。目金は急いでそこに耳を寄せた。がさがさに荒れて、乾いて、くたびれた栗松。
「あんたの期待に応えるのは」
「もうやめます」
があんと視界がしろく焼けただれ、そして雨が通りすぎていく。あまりにも簡単で、せつない。神様。神様どうか。どうか彼を「   ないで」







よいこのてそう
あの辺の目金と栗松。
あのひとのはなしをしよう。
あのひとはまるで風のようにつよくはやくしなやかにグラウンドを駆けては魔法みたいにボールを奪う。ときにはつむじのように、ときには竜巻のように、あのひとは誰よりも誰よりもまっすぐに地面を切り裂いて駆け抜けてゆく。そしてやはり風のように猛然と敵に襲いかかり、たったひとりのあのひとの心の支え、腹心の友だけのために勝利を連れてくる。あのひとはつよい。つよくて脆い風のひと。髪の毛をなびかせて周りをすべてはね飛ばし、そしてゴールネットをボールが揺らすときにはじめて、あのひとは屈託なくわらうのだ。反対側のゴールに巌のごとく立ち尽くす、あのひとの腹心の輩に向けて。あのひとの世界に人間はふたりしかいない。つよくて脆い、風のひと。

冬の練習は基礎体力作りと称して、ひたすら長距離を走り込むだけの単調なものになる。河川敷の土手をぐるっと巡る外周や、学校のグラウンドを時間を決めて延々と走り続けるタイムアタック、五十メートル走に三メートルロケットダッシュに二十メートルのランバックラン。ふくらはぎがわらうほど毎日とにかく有酸素運動を繰り返しては、みんなへとへとに疲労する。長距離を走ったすぐあとに座りこむと痔が切れるので、グラウンドの一角に腰ほどの高さのハードルを並べてあり、タイムアタックのあとのサーキットやランバックランのあとの外周のときには、それぞれそこに掴まってストレッチをする。提案したのは風丸で、陸上部が使わなくなったがたがたのハードルを借りるために自ら交渉しさえしたのだった。塗装がはげかけたハードルにかかとをかけ、両手でハードルを掴んでアキレスを伸ばす。風丸はそれがうまくて、だからというわけではないが走り込みのタイムはいつも部内で一二を争っていた。
円堂はあまり走る練習が得意ではなく、意欲はあるものの短距離のタイムなんかは低迷していた。代わりに長距離の持久走では抜群のタイムをたたき出すそのアンバランスな能力を風丸はひどく羨ましがり(風丸は圧倒的に短距離の人間だった。五十メートル走では一秒以上差がついている半田と、外周ではほとんどおなじタイムなのだ)、その羨望がますます風丸の円堂崇拝に輪をかける。風丸はチームメイトと交流しようなどというつもりをはなから持っていないらしく、円堂以外に対する態度のあまりのそっけなさに、面倒見のいいマネージャーたちをやきもきさせていた。まるで他のメンバーなんか最初からいないみたいに振る舞う風丸を、松野や半田は毛嫌いして一年生は遠巻きにする。さらに困ったことに、円堂自身が風丸にそう興味がないために、風丸はいつでも空回り気味でひとりぽつんと疲れはてていた。それでも不思議と満足しているみたいな風丸は、当然のようにサッカー部の異人だった。
壁山なんかは誰にでも穏やかでやさしいものだから、そんな頑なな風丸のことをやんわりと気づかったり、さりげなくはなしを振ったりしている。しかし壁山は誰の目から見ても円堂にひいきされていたし、あからさまなほどに気に入られていたので、風丸はそんな壁山がたぶん死ぬほど嫌いだった。風丸からにじみ出る嫌悪感に気づいたのだろう壁山は、そのうちに自分から少しずつ距離をおくようになり、代わりに栗松がそっとそこを埋めた。風丸と雷門中サッカー部の間にある開いてゆくばかりの渓谷を、頼りなくきゃしゃな腕で必死につなぐ。栗松はあのころ殉教者の横顔をしていた。それでも栗松はたぶん、風丸のことがそんなに嫌いではなかったのだ。わらいもしないし言葉も交わさない。もちろん名前だってろくに覚えてくれていないのだろう風丸を、それでも栗松は、じっと黙ってサッカー部に繋ぎ続けた。

彼のはなしをしよう。
彼は円堂に及ばないから興味がない。

風丸はやんわりと肩ごしに振り向いて、驚いたように目をほそめた。はじめてこの後輩の顔を見た気がした。せつなくゆがんだ苦しい顔。不愉快だった。振り向きざまになぎ払った拳に手応えがあって、そのつめたい感触が不愉快だった。だって、そんなかなしい顔をするなんて。おまえは円堂なんかじゃないのに。おれはおまえの名前だって覚えてないのに。こめかみを痛打されて栗松はつめたいコンクリートに這いつくばる。風丸が放った裏拳の、その拳の甲に浮き出たこぶこぶが冷えきったひふを容赦なくえぐった。脳が震え、目が揺れて、吐き気に似たものがこみ上げる。からっからっとコンクリートを風丸のスパイクが引っかいた。ゆるゆると風丸はあるいている。風丸さん。風丸はたぶんわらった。木枯らしのグラウンドは静寂に沈む。誰ひとり残ってはいないその場所で風丸はわらった。円堂の名前を呼びながら。
円堂が走るのは風丸に追いつきたいからではない。たったひとりで走っていくためだ。円堂の世界に風丸はいなかった。少なくとも必要なものではなかった。風丸が円堂を全身全霊で欲し、求め、必要としているようには、円堂はきっと思ってすらいなかったのだ。風丸はサッカー部の異人だった。円堂にとっても、そうだったのだ。かなしいことに。残酷なことに。
「風丸さんいつまでそうしてるの」
風丸が本当になりたいのは円堂なのだった。円堂になって円堂が見ている世界を見たいのだった。どうしようもないひとだと憐れみながら、それでも羨ましいと思ってしまう自分がかなしかった。殉教者みたいな横顔をして、栗松だってあのひとみたいになりたかったのだ。ひどく遠くてもう思い出せないことだったが。ふたりぼっちの楽園から彼を追い立てることはもうできない。砕けた骨をそっと隠した。







汽車は蓮華の上を
風丸と栗松。
喉のあたりがいがらっぽいのは風邪の引き初めであるからです。溶媒が渇いた涙型のカルキの跡を、まるで波のようにざわざわと残したコップでイソジンを希釈してうがいをします。苦くてまずいこの薬液は、清潔なのでそこまできらいでもありません。今度はざくろみたいな色をした希釈液が涙みたいに残るでしょうから、指先ですべて丁寧に洗い流してしまいます。冬になると手洗いが過ぎて、いつもがさがさとみっともなく荒れるばかりのてのひらは、今年に限ってはまだその気配を見せません。経費で無理矢理落として洗面台に置いた、天然成分だけでできたなめらかなあおい石鹸がよかったのかもしれません。学校へはハンドタオルを三枚持っていき、うち二枚は学校にいる間に捨ててしまいます。使い古されてくたびれたレモン石鹸が手洗いネットからぐずぐずにはみ出しているのなんかも、実を言うとあまりきらいではないのです。
冬になると慎重にならなければなりません。髪の毛のひとすじまでも神経です。汚いものが乾いた空気の中であっという間に繁殖する爛れた冬。粘膜がひび割れて表皮が剥離する、冬。足の爪に縦にほそくひびが入っていたのを、リバテープでしっかりと巻いてあります。だから今日も走ります。冬はからだの速さと熱さだけはひどく正確に伝えてくるので、それだけはわるくないと思えます。二枚目のハンドタオルは三階のトイレのごみ箱に入れておきました。上履きの底の溝にくろく汚れがたまっていたので、靴下とリバテープもおなじ場所に捨てて新しいものにしました。週末が待ち遠しいです。洗面台のなめらかなあおい石鹸が恋しいのでその速さばかりを冬が伝えてくるのでした。このままだと木枯らしみたくなってしまうと思ったときに教室の時計の針は12を過ぎました。チャイムがまだ鳴らないので時計が狂っているのです。地球は少しずつずれて回っているらしいのですが、そんなことよりもはやく会いたいと思う気持ちばかりが速くなります。このままだと木枯らしみたくなってしまうと思ったそのときに最後の我慢がふつりと切れました。


風丸が部室中をひっくり返して、ぶつぶつなにかを言いながらいらない(と風丸が判断した)ものを次から次に部室の外へ放り出している。円堂が部室についたとき、入り口前には段ボールの空箱やら空気抜きの済んでいない使用済みスプレー缶やら大小とりまぜのスパイクやらユニフォームやらが小山のように積み重なっていた。その傍らには一年生たちが、部室から放り出されたそれぞれの私物を抱え、疲れきった顔で佇んでいる。キャプテン。円堂に一番に気づいた音無が声をあげ、両手いっぱいに対戦校のメンバー表やスコアブックや部誌や救急箱を抱えたままうらめしそうに戸口を見る。錆びだらけのダンベルがみっつ、立て続けに飛び出してきておもたい音を立てた。危なくて下手に近寄ることもできない。部室の中からは騒々しい音がひっきりなしに漏れている。風丸さぁんもういいんじゃないっすかぁと、宍戸の果敢な呼びかけに反応さえ感じない。
円堂は鞄を栗松に投げ(栗松は両手からスパイクをばらばらこぼしながらそれを受け止める)、風丸、と呼びかけた。円堂か?即座にひどく明るい返事があり、円堂は眉をしかめた。わるいな、ちょっと散らかってたから。あーもーいいよ、このままじゃ部活できねーよ。円堂の言葉に部室の入り口から風丸がぬっと顔をつき出し、そうだな、と晴れやかにわらう。もう大丈夫。きれいになったよ。円堂は肩ごしに壁山を振り向き、なにかを言いかけて、やめる。それまとめとけ。入り口の必要品の山を指さすと、はい、と少林寺がすぐに応えた。入るぞ。またダンベルが飛んできたらたまらないので、円堂は先に声をかけてから部室に足を踏み入れる。部室のそばの洗面台には、風丸がやけに気に入っているあおい石鹸がしっとりと濡れてうずくまっていた。


冬にはサッカーをしますサッカーをするには基礎体力が必要なのでたくさんたくさん走りますそうするとからだがどんどん速くなってやっぱり木枯らしみたくなってしまうのでした冬をやりすごすにはそうするしかなくてそれを教えてくれたのは円堂ですなのでこの部室は円堂だけのもので円堂以外の誰かが使っていいものではないと常々主張してきましたなのに円堂はこの部室はみんなの部室だからととてもとてもやさしいことを言うのでみんなは円堂の居場所に我が物顔で入り込んで蟻のように荒らすのですなのでときどきはそれを思い出させてやらなければならないのですこの世界は円堂が必要としていて円堂しか必要としていないのですから誰にも文句なんて実はないのですないはずですないに決まっていますそうなのです冬には円堂とサッカーをしますサッカーをするには基礎体力が必要なので円堂とたくさんたくさん走りますだから木枯らしみたくなってしまってもいっそ冬に融けてしまってもいいのですそうしたら石鹸になって円堂の手をずっとずっときれいにします円堂の手は大切な手なのでそれを守るのです円堂と円堂のサッカーを守るのです


部室は変に病的にうつくしく荒れていた。風丸はにこりとわらって、今日の部活は何をしようか、と快活に言う。その足元はなぜかあおじろい素足で、右足の親指の爪が縦にほそくひび割れていた。部室の真ん中に、円堂のユニフォームがきれいに畳んで置いてある。その傍らにはスパイクも揃えてある。なのに部室にはそれしかない。ベンチはすべて壁際に寄せられ、ロッカーはひとつのこらず中身を抜かれてぴったりと閉じられていた。はやく一緒に練習しようぜ。風丸は急かすように円堂の手に触れ、そしてびくりとからだをこわばらせる。そこはぼろぼろに皮がめくれ、傷だらけで荒れていた。円堂はゆっくりと風丸を見て、にこりともせずにきびすを返す。風丸はその背中を呆然と見送った。無言でばあんと部室を閉め、反動で少しだけ開いたその向こうに円堂の姿は見えなかった。そこからはじわじわと冬だけが侵入してくる。侵入してくる。侵入してくる。なめらかなあおい石鹸を、円堂は使ってくれるだろうか。


円堂と円堂のサッカーを守るのです


足の爪に血がにじんでいた。呆れるほどに冬は風丸の円堂をぎりぎりで奪い去る。







疾風・奪取
風丸。
円堂はきいろくつやつやとまるいみかんを剥く宍戸の指を、いかにもだらしなく頬づえで眺めていた。宍戸の指は痩せてほそく、血の気の引いたあおじろいひふに、がさついたささくれや関節のあかぎれがうすあかく色づいている。それだけで冬が苦手なのだとわかる宍戸の指。すじも取って。気だるくそう言うとへいへいとこちらは気安く答えた。ふたりきりの部室はましかくに冷えて、首のあたりが知らず知らずのうちに寒さでこわばる。わざと力を抜くと、今度は喉の奥、内蔵のさらに底のほうがぎゅうっと絞られるように震えた。いつもの癖でつけていた穴のあいたキーパーグローブをのろのろと外して、そうするとかすかに汗ばんだてのひらが刺すように痛む。冬だ。円堂はつぶやく。冬っすねぇと脊椎反射的に応えた、宍戸のそのしろい指が丁寧にみかんのすじを取り除いている。
雷門中でインフルエンザが流行し始めたのは一週間ほど前だが、たった数人の生徒から始まったそれは驚くべき速さで学校中に広まり、マンモス校で名高い雷門中をあっという間に席巻した。朝の職員室には欠席を知らせる電話がひっきりなしに鳴り続け、受験を控えた三年生の校舎は早々に閉鎖された。サッカー部も例に漏れずぞくぞくと倒れ、数日前に半田がなんかあたまが痛いと早退した翌日には、部員は半分に減っていた。松野あたりは便乗してさぼってるだけなんじゃねえの、と円堂が電話をしてみたところ、がらがらに潰れた声が寝てんだから邪魔すんな死ねと毒づいたので、ああこれは本物だなと思った。やがてばかは風邪引かない染岡や音無、基本的にからだは丈夫な影野、病気など寄せつけない健全な生活を身上としている少林寺や、健康優良児二重丸の壁山までが学校を休むに至って、ようやく円堂は異変に気づいた。おとといまでは学校に来ていた木野も、昨日具合がわるいと早退してしまったし、夏未の姿もここ最近見ていない。
今日は練習やんないから帰れ帰れ。円堂はこのウイルス地獄の最中にも風邪を引くそぶりすら見せない深刻なばかの豪炎寺と風丸をそう言って帰し、ひとり部室に赴いた。せっかくなので風邪でも引いてみようと思ったのだ。もっとも円堂とて深刻なばかのうちのひとりであるから、たぶん結構がんばらないと無理だ。分厚いマフラーをかばんに押し込み、かわりに取り出した携帯にメールが来ていた。開くと栗松からで、具合わるいんで早退しましたーという簡潔な一文のあとに、ケロロ軍曹の絵文字がぴこぴこ踊っている。ちくしょうと無性に腹が立った。おれだけのけ者みたいにしやがって。あからさまに不機嫌な顔で部室の扉を乱暴に引き開けると、そこには宍戸がいた。うお。円堂は思わず声をあげる。うーっす。宍戸はジャージの上に学ランをはおり、さらにその上から深みどりのマイクロブランケットを巻きつけて肩をちぢめていた。座面に穴のあいたベンチに浅く腰かけた宍戸の膝が小刻みに震えている。
宍戸はくちびるをまげて、キャプテン遅いっす、と不服そうに言った。あーわりーわりー。今日部活休みにしようと思ってさ。えーもー早く言ってくださいよーそーゆーことは。あきれたように首をそらし、ずずっと洟をすすってあーと宍戸は低くうめく。さ、びーっすね。だな。円堂は後ろ手で扉を閉め、ぼろパイプ椅子にどかっと座る。キャプテン帰らないんすか。あー、まあちょっと。練習ならつき合うっすよ。練習はしねー。ただの暇つぶし、ひつまぶし。くくっと宍戸はわらい、キャプテンみかん食います、と唐突に訊ねた。円堂は目をまるくする。なんだよ急に。やー田舎から大量に送られてきたんすよね、と、傍らのスポーツバッグをさぐった。食いきれねっつんで。おまえ田舎どこ。和歌山っす。どぞ、と宍戸は鮮やかな色のみかんを差し出した。さびーから剥け。えーひとが剥いたみかんまじいっすよ。いいからと円堂は気だるく手を振る。今日のキャプテンへんなひとっすねぇと苦笑し、宍戸はそのみずみずしい皮に指をつき立てた。
宍戸のてのひらの中でみかんはだんだんつるつるに剥かれていく。おれら流行に乗り遅れてるっすね。宍戸がわらいながら言った。おーと円堂は眉をしかめる。はやく風邪引きてーのに、なんでおれこんな頑丈なんだよ。頑丈いいじゃないっすか。健康がいちばんっすよ。健康のためなら死ねる!とたぶんあの芸人の似てないものまねをして、宍戸は呼吸でもするみたいにわらった。それでこそ雷門のゴールキーパーっつーか。頑丈じゃないと勤まらないでしょ。思ってもねーこと言ってんなよ。ほんとに思ってますよ。あはは、と宍戸は今度は快活にわらった。おれわりとキャプテンすきっすから。チッと円堂は舌打ちをする。媚びてもスタメンはやんねえよ。ひっでえ。宍戸の横顔が飄々とわらっている。本当のことなんか宍戸はなにひとつ言わない。言わないくせに、それでも隠しもしないのに、円堂はそれに気づくことが、いつになってもできないのだ。
でーきたー、と宍戸は芝居がかったしぐさで、すじをすべて取り除いたみかんを掲げた。できましたよ。そう言って宍戸は円堂にそのオレンジの塊を差し出す。宍戸の指先でやわらかく悶える、欺瞞と矛盾のせつない塊。円堂は手を伸ばす。さんきゅ。しかしつかんだのはみかんではなく宍戸の痩せた手首だった。え。円堂は口をひらく。そしてつるつるのみかんを宍戸の指ごとひといきに頬張った。ちょ、キャプテン。キャプテンいてえいてえ噛んでるって、ちょっ。もがく宍戸の手首をしっかり握り、円堂はそれにつよく歯を立てる。奥歯の下で果肉が潰れ、酸味が鼻の奥を突くのと同時に果汁がだらだらとこぼれた。宍戸の指は骨のようだった。やがてそのしろいひふを涙のように果汁が伝う。おれのこと恨んでもいいよ。円堂は執拗に指に歯を立てながら低くささやく。恨んでもいいから。いいんすか。宍戸はもう抵抗をやめて、ただ奇妙に落ちついた顔をして円堂の奇行を眺めている。
恨んでどうにかなるものなら。それが、かたちあるものならば。円堂はなにを犠牲にしてでもそれを償いたいと思ったし、だからこそそれができないから、宍戸にとってなにひとつ代わりにならないことこそが、苦しいのだ。恨めよ。奥歯で噛んだ骨がみしりと鳴いた。嘘。宍戸はかわいた口調でいう。だからおれはキャプテンがきらいだ。そうだ。恨んでなんて。円堂は乱暴に宍戸の腕をつっ放し、みかんはやっぱり愛媛だな、とぶっきらぼうに言った。コンクリートに半分噛み荒らされたみかんがしかばねのように横たわる。もったいねえ、とひとりごとみたいに呟いた宍戸の指には歯形が幾重にも刻まれ、そこかしこを果汁で染めている。
本当は。円堂は目をほそめる。本当は恨んでなんてほしくない。でもそれを知りながらなにも言わない宍戸の、その心の闇を価千金と願う。しかし願ったところで幻想は潰えたし、現実ならばこういう不確かなものにしかならないのだ。願いは叶わない。宍戸の指は骨のようだった。ささくれとあかぎれの、冬が苦手な宍戸の指。願いは叶わない。円堂がどれほど願っても。だからその涙で責めてほしかった。その涙で、泣いてほしかった。円堂は頑丈だから。頑丈だから傷つくことさえできないのだ。円堂は宍戸の胸ぐらを掴んで、思いきりその顔を殴った。宍戸の指は骨のようだった。つめたいひふはしかばねのようだった。噛み荒らされたみかんがだらだらと泣く。どうか恨んでください。恨まないでください。棄ててゆくばかりのおれたちを、あなた、どうか、許してください。








暁に死す
円堂と宍戸。
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