ヒヨル いちねんせいのはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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部屋の中を季節はずれの蚊が羽音もうっとうしく飛んでいて、それがふくらはぎにぴたりと着地するのを見届けてから音無は携帯をひらいた。あーもしもし、へえちゃん、こんばんわ。今ひま?だいじょぶ?あのねーお願いがあるんだけどねー。そこまでつらつらっとまくし立てると、うんーだいじょぶだよー用事なにーと間延びしたやさしい返事が届いて音無は誰にともなくほほえむ。壁山の声はいつでも穏やかで、電話越しに聞くとよけいに丸みを帯びて聞こえる。かん高くとげとげするばかりの女友達の声が記憶の中で鼓膜を揺らすので、急いでそれを追い出しながら音無は手帳をひらいた。明日遊びにいこー。ねえいいでしょ。壁山はちょっと黙って、いいよ、と言った。ありがとーじゃあまたメールするー。今言っちゃえば。今から考えるの!だから待ってて。わかった。あとでね。その声を聞いてから音無は電話を切った。壁山はいつも、相手がそうするまで電話を切らない。
壁山とあるくと不思議と守られている気がして居心地がいい。さりげなく車道側に立ってくれたり、バスや電車の人混みからおおきなてのひらでかばってくれたりもする。ふるい森のトトロみたいな、気持ちのやさしい壁山。音無がわがままを言うのは今にはじまったことではない。練習のない休日に、なにかと壁山を呼びつけてはあちこち連れまわし、結局なんにも、買い物だとか食事だとかそういったたぐいのことは全く、しないままに帰ってきてしまう。いい加減にしろよなーと宍戸は言うが、音無は一向に気にしない。もちろん断られることも文句を言われることだってちゃんとあるけれど、それはなぜか言わないでいた。音無がなんとなく隠したままで壁山もなんにも言わないから、それはそのままふたりのぎこちない秘密になってしまっている。
結局翌日も目的なんかまるでなく、駅前をふたりでぶらぶらあるいてどうでもいいことをだらだらしゃべるだけだった。壁山の右手にはビニル傘が握られていて、それどうしたのとたずねるとなんか天気崩れるらしいから、とてれくさそうにわらう。コンビニに差し掛かると音無は壁山のすそを引いた。雑誌、発売日なの。手動でドアを開けるとバシバシのまつ毛をした金髪の店員がいらっしゃいませーと平坦に言った。もくもくと立ち読みをする音無の傍らに立って、壁山もマガジンをめくっている。ちらりと視線をやると、いつの間に買ったやら壁山の手首にちいさなコンビニ袋がまるくふくらんで揺れていた。買わないの。雑誌を閉じる音無に壁山は問いかける。今度にする、と、言い出しっぺのくせに率先してコンビニを出ようとする自分を滑稽だと音無は思った。金髪の店員のバシバシのまつ毛の視線が刺さってくるような気がした。
壁山はコンビニを出ると、袋の中身をひとつくれた。あつあつのあんまんを両手で持つと指先がちりつく。あついね、と言うと、仕方ないよ、と返る。あついのをこらえて半分に割ると、熱を持ったあんこがとろりと湯気を発して不意に胃を鳴かせた。壁山はもう半分近く食べ終わっている。おいしい。おいしいよ。音無は断面からすいかを食べるみたいにかじりついた。糖分がじわりとからだに染み渡る。ほんとだ、おいしいね。うん。おいしいと言いたいところがあまりにあつくておいひい、になってしまうことにこみ上げたおかしさが我慢できなくなり、ぶはっとあんこごと吹き出すとうわあと壁山は驚いたようにあとじさった。なになに。んーん、と音無は首を振り急いであんまんの残りを口に押し込んで壁山に後ろから抱きついた。へえちゃんすき。だいすき。
以前、なにがきっかけかはもう忘れてしまったが、なんとなくすきなひとのはなしになったことがあった。音無は目金のかっこよさについてそれはもう気合いを入れて力説し、壁山はにこにことうなづきながらそれを聞いていた。はなし疲れた音無がへえちゃんは、と振っても壁山はなにも言わなかった。ただ黙って、やさしくわらって、静かに目を伏せたきりだった。あのときとおなじ気配が、壁山のからだに回した指をそわりとうずかせる。もしかしたらわたしたちはこのまま恋に落ちられるのではないか、という、絶望的な気配が。ありがとうと壁山はわらった。嬉しいよ、と言いながら、その口調はちっとも嬉しくなさそうだった。どうしようもなかった。否定してくれればいいのに。振り払ってくれればいいのに。壁山の右手のビニル傘がばたんとアスファルトに転げた。ぎこちない秘密はこうして積み重なっていく。だけど、音無は壁山をほんとうにすきだった。それだけは秘密でもなんでもなかった。
音無は学校での壁山がきらいだった。特に、一緒に弁当を食べたあとの壁山がきらいだった。誰よりもはやく誰よりもたくさん食べる壁山は、おおきな弁当箱を片づけたあとにぼんやり特別教棟の方を見ている。吹奏楽部がにぎやかにクシコスポストを演奏していて、壁山は黙ってそれを聴いている。みんなのはなしも聞きながら、注意深く、静かに。音無は知っている。壁山がほんとうに聴いているのは、あのひとがアメリカの小学校の鼓笛隊でやったと言っていた、調子のはずれたトランペットだけなのだ。胃の中であんこがブラックホールみたいにどろりと渦巻いている気がして、ふくらはぎにはうすいかさぶたができている。雨が降ればいいのに、と思った。壁山がすきで、すきで、どうしようもなかった。







雨あがる
音無と壁山。
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背がたかくなりたいと思っている。栗松は部活で二番目に背がひくく、ついでにいちばんちいさい少林寺ほど性格もつめたくないので、松野や染岡なんかにはよくちびちびとからかわれる。確かに平均身長にさえ満たないことは自分でも認めるが、そこまで際立ってちいさなわけではないのに、とは常々思っていて、だけどひょろひょろと背の高い宍戸あたりと並ぶとああしょうがないかーちびだちび、と納得してしまうのがかなしかった。父親は背がたかく、母親も昔バスケをやっていたのでそこそこ身長がある。なので成長期になったら見てやがれと、風呂上がりの牛乳を増やすことしか今の栗松にはできない。七夕の笹飾りにもこっそり背がたかくなりたいと書いて、あまりに気恥ずかしくなってそれは捨ててしまった。いまだにすこしそれを悔いている自分をみっともないと思いながら、来年こそはそんなもの書かなくてもいいくらいにでかくなってやると決意をあらたにする。
あらゆるスポーツにおいて、健康で頑強で、さらに一部の特殊なスポーツを除いておおきなからだを持っているのはそれだけで強みである。壁山などはかなり恵まれた体格をしているため、柔道部や相撲部からの誘いが引きも切らない。おおきなからだは相手を威圧する。さらに、それに見合ったパワーを持つ。軽々と吹き飛ばされるディフェンダーでははなしにならないのだ。栗松はランバックランのスタートラインに並んで足首をかるくまわす。夏休み明けの初日、宍戸になんか痩せたなと言われたのがしゃくだった。ちゃんとくってた。くってたけどと言うと、へえーと宍戸は栗松をしげしげとながめ、けがすんなよ、と言った。ホイッスルの音と同時にラインを蹴って、栗松は内心首をかしげる。夏風邪をこじらせて寝込んだのがばれているみたいでやっぱりしゃくだった。少林寺がぐんぐん栗松を引き離していく。うらやましい、と思った瞬間にホイッスルがまた鳴った。ぐ、とかかとに力を入れると明らかにふんばりが効かなくなっていて、ちょっとへこんだ。
少林寺はいつも壁山の肩の上にいる。小学校からの付き合いのふたりは部内でも特に仲がよく、登校も下校もなんとなく一緒にしているのだった。少林寺を肩に乗せたときに壁山が重みなんか全然ないみたいな顔をしているのがうらやましくて、さらに宍戸がからかい混じりに少林寺を後ろから抱き上げたりするのもうらやましかった。そういうことをしてみたい、と思った。少林寺がいちばんにゴールラインを駆け抜けるのを見て、あっと思ったときには砂にスパイクをとられて栗松は前のめりに転んでいた。振り向いた少林寺が目をまるくする。どうしたんだよ。栗松はうつぶせに倒れたまま、顔だけをいそいで上げた。転んだ。なんで。なんでって。なんでってそりゃ、と思ったときに、おーいだいじぶかーと宍戸と壁山が栗松をのぞき込んだ。すげーヘッスラ。種目ちげーし。栗松はユニフォームを払いながら立ち上がる。思ったより血は出ていなくて、強打した胸がにぶく痛んだ。後ろから松野と半田がブーイング(もっと派手にすべれ!)を投げかけてくる。
手洗い場行ける?と壁山が差し出す手にだいじょーぶだよとかるく手を振り、救急箱を持った音無にあとでよろしくと言った。それでも膝の擦り傷からにじむ血に眉をしかめる。あーいってーと思いながら歩き出す栗松の手首をちいさなてのひらが握った。行くぞ。え。少林寺が肩ごしに振り向いて、あいつら今からはしるじゃん、と言った。え、あ、うん。えっと。栗松がごにょごにょ言っている間に、少林寺はその手を引いてグラウンドをななめに横切っていく。いたい。あ、まぁ。どこ。えーと、胸んとこ。見た目わからないけががいちばんこわいよ。あー、だいじょーぶじゃねーかな。少林寺が手首をつかんだのはてのひらもざりざりにすりむいていたからで、今さらのようにちくちくとそれらが勘にさわる。少林寺のてのひらはちいさくてあつい。夏をこり固めたようなその感触。
グラウンドを抜けたところで栗松はふと足を止めた。少林寺がぐんとつんのめる。なんだよ。やー。栗松は両手と両膝に血をにじませたまま、少林寺をじっとながめた。なに。んーと。はやく洗わなきゃひどくなるから。少林寺さあ。栗松はちょっとわらった。手首をつかんだままの少林寺のてのひらを、ざりざりのてのひらでそうっとおさえる。少林寺はそこに視線を落とし、顔をあげて目をちょっとひらいた。なに。少林寺さあおれが七夕んときになにお願いしたか知ってる。は?知ってる。しらねーよ、興味ないから。そうか。栗松はいたいようにわらった。そうだよな。少林寺はいぶかしげな顔をして、おまえどっか打った、とたずねる。栗松はそれには答えずに手をほどいて、おれおまえがうらやましい、とつぶやいた。少林寺は一瞬きっと目をつり上げたが、やがて困ったような顔をして、しょうがないなーと言った。おれあまえられんのきらい。そう言いながら手を伸ばし、栗松の髪の毛を両手で思いきりかき回した。栗松の血と砂をまとわせた夏のてのひらで。
ぐじゃぐじゃにされながら栗松は自分の奥の方から、なにかとてつもなくどうしようもないなにかが、ゆっくりとだらだらと染み出してくるのを感じていた。だぶついた感情を絞って捨てて、もっともっと素直で欲深で純粋ななにかに変えてしまおうとするように。少林寺。栗松はうなだれてかすかにほほえんだ。おれおまえ以外なんもいらないんだ。ほんとだよ。少林寺はぱしんとひとつ小気味良くあたまをはたいて、終わり、と言った。もーなんも聞いてやんね。はやく手ぇ洗おう。そう言ってまた栗松の手をとる少林寺のてのひらが、その感触が、星のように澄んで届いた。あやうく泣いてしまうところだった栗松はかろうじて、いえっさー、とわらう。ほしいものはたかい身長でも頑健なからだでもなく、ただきみだけだった。きみを抱き止める強さだった。ようやくそのことに気づいて栗松はそっとわらう。今までそれしか願わなかった。素直で欲深で純粋な遺伝子。







持たない遺伝子
栗松と少林寺。
夏休みは部活以外になにもすることがないので、宍戸はあるける範囲であちこちに出向いた。少林寺とは前からぬうと立った煙突が気になっていた銭湯を見に行って、汗だくになったのでついでにふたりで一番風呂に入りフルーツ牛乳を飲んで帰った。壁山とは池のある公園に行ったり、さるの絵のついた巨大な滑り台のある公園に行ったりした。そこでは下らない話を延々として、日が翳って涼しくなるまでそれが尽きることはなかった。話すことはいくらでもあって、時間は膨大だった。音無とはエアコンの効いた公共施設で、大量に持ち込んだネイルケアのグッズを駆使してお互いに爪をきれいに磨き合う。どんなにきれいなマニキュアをつけても次の部活のときにはぼろぼろに剥がれてしまうのだが、そのくらい潔くてあっけない方が楽でいいと宍戸は思っている。ひとりでなら本屋をめぐって新書の背表紙をずっと眺めている。金がないのでおいそれと買うわけにはいかないが、これとおなじことを栗松がしているのでなぜかやめられずにいる。
よく晴れた日の部活のあと、てつ今日どっかいかね、と宍戸はAg+のシートで腕や首を拭いながら言った。えーと栗松はよく冷やして固く絞ったタオルを顔に当てながら振り向いた。きれいに浮かんだ肩甲骨。なんて?今日おれとデートしよって。やだよと栗松は眉間にしわを寄せた。宍戸は手を伸ばし、汗で浮き上がった栗松の鼻のテープをびっと剥がす。いーじゃん。どーせ暇なんだろ。まー暇だけど。栗松は言葉を濁し、助けを求めるように視線をさまよわせた。少林寺はかばんを肩にかけて、今日はおれ宿題するからとさっさと帰ってしまう。音無は壁山の腕にひしと抱きついて、今日はあたしたちお買い物行くもーんとわらった。あーと栗松はため息をつき、うらめしそうに宍戸を振り向く。今日くらい家にいれば。おれ家すきくねーし。ぐじゃぐじゃとあたまを掻いて、じゃいいよ、と栗松はテープを剥がされた鼻をてのひらでこすった。結局栗松はやさしいのだ。宍戸はにっとわらってカッターシャツに腕をとおす。
洗いざらしたピンクのポロシャツとダメージジーンズは栗松によく似合う。うーすと宍戸は手を挙げた。栗松は待ち合わせの五分前に、ちゃんと最寄りのファミマで待っていた。おせーよと栗松は携帯を尻のぽけっとにしまう。ややサイズがおおきい襟ぐりの開いた七分袖アンサンブルとサルエルパンツ、アイスクリームのチャームのネックレスをつけた宍戸をしげしげと眺めて、おまえよくそんなの着れるね、と栗松は半ばあきれたように言った。ひょろりと痩せてせいの高い宍戸には中性的な格好が似合う。なんだおまえまたこれ貼ってきたの、と宍戸はひとさし指で栗松の鼻のテープを撫でた。栗松は鼻炎持ちで、本当は教室や部室の空気が苦手なのだ。どこ行くの。宍戸の手をべちんと払い、栗松は鼻をこすった。ちょっとぶらぶらしよーぜ。そう言って宍戸はポロシャツ越しに栗松の二の腕を取る。律儀にそれも払われて、宍戸はちょっとわらった。
汗かきの栗松はいくらもあるかないうちに、もうすでに額から汗を流していた。暑いの苦手。うん。栗松はだるそうに額を拭う。おまえ平気。おれ暑いの得意。宍戸はうなじにてのひらを当てる。冬は苦手だが夏はすきだった。汗もあまりかかないし、熱中症にかかったことは一度もない。動物じゃん。栗松はへらっとわらう。変温動物的な。ほれ。宍戸はてのひらを栗松に差し出す。さわってみ。うわつめて。てのひらに触れて栗松は目をまるくする。なにおまえ、すげーな。すげーだろ。うわーと栗松はおそるおそる宍戸のてのひらをほほに当てた。きもちいー。宍戸はもう片手も伸ばして栗松のほほを挟む。あつくちりついた夏の肌。その瞬間、じゃあじゃあと降り注ぐ蝉の声がすべて途絶えたような気がした。栗松が顔をあげて、はっと離れようとする。宍戸は両腕をつかんでそれを止めていた。なまぬるい空気が足元を吹き抜ける。あおい、と、思った。空があおい。こわいくらいに静かに、あおく沈む。
そのまま結局どこへも行けず、栗松は宍戸の数歩前をゆらゆらとあるいている。孤独な散歩みたいな、ひとりきりの徘徊。ふたりの間の何メートルに、気づけば沈黙がすべりこんでいる。呼びかける声さえためらわせる、焼け焦げた静寂が耳を刺す。夕焼けがながくながく影を伸ばし、栗松は振り向かない。ロールアップのジーンズからのぞく足首が筋ばってほそい。腕と顔と膝だけが焼けてあとは驚くほどしろいままのひふと、何度も剥けて分厚くなったかかとの皮。おなじ場所でおなじことを夢見ておなじものを持ちながら、伝える言葉だけをいつのまにかなくしていた。そうやって届くことを選んだのだった。そうしたかったんだと自分に言い聞かせた。宍戸はそっとてのひらを見下ろす。そうやって届くことを選んだんだって。
宍戸はよわくゆるく、ふふふとわらった。冗談みたいに飛び出た鎖骨にネックレスのチェーンがしゃらしゃらと流れている。現実をつないで幻想を捨てても、だぶついた着地点にあしあとはせつなくぶれた。埋まらない溝をつま先でにじって、ないふりをしようとあがく滑稽な自分。あまくにごった夕暮れを融かす涙にも似た空気の向こうで、栗松のうなじがぽかりとしろく透明だった。それだけをもらって宍戸はゆく。ぶれたあしあとを無数に重ね、埋まらない溝に深く沈みながら。栗松が振り向いて、はやく行くよ、と宍戸を急かした。それだけをもらっておれはゆこう。どうにかなると信じていた、信じるに足りた場所を置いて。いつかどこかで思い出し、手に取って眺める日が来るといい。確かになにより幸福だった、あおく燃えていくふたりの日々を。







亀の鞍
宍戸と栗松
バッティングセンターに寄っていこう、と少林寺が言うので、部活の終わった放課後、壁山は厳重に金網にかこまれたボックスの後ろ、タバコのくろ焦げと穴のあるベンチに腰かけている。くたびれた風情のバッティングセンターにはそれでもそこそこ客がいて、壁山の前をよく陽に焼けた高校生が数人通っていった。高校名と名前の刺繍された泥よごれのスポーツバッグを下げ、清潔に剃られた坊主頭をした彼らはそれぞれがほそいバットケースをかついでいる。壁山はなんとなくいたたまれないような気分になって、せわしなくあちらこちらに視線を飛ばした。ほこりのかむったトロフィーが並ぶ棚に、色あせた写真が立てかけられてある。夜のバッティングセンターは煌々とあかるく、サーカスのテントみたいに風景からぽかんと浮き上がっているように思えた。むせかえるような夏の夜。虫の声がかすかに聞こえる。
ぱきぃん、ぱきぃん、とかん高く澄んだいい音があちこちから聞こえて、それは目の前の少林寺がいるボックスからも鳴り響いていた。からからのいちばん軽いバットを手に、少林寺は右のバッターボックスにしっかりと足を踏ん張っている。脇を締めて力強くバットを振り抜くその動作はなかなかに決まっていて、球速九十キロのボールを完全に捉えていた。腕も脚も棒っきれみたいにほそいのに、快調にボールを飛ばす少林寺に壁山は目をほそめる。二塁打は固いだろう痛烈なライナーがネットをばさりと揺らした。からだの使い方が上手なんだな、と壁山は思う。なりはちいさくて女の子みたいだけど、少林寺にできないスポーツはないのだ。
ジャージを脱ぎ捨てた少林寺の背中に、Tシャツが汗でぴたりとはりついている。脊椎のこぶこぶまでを浮かばせる痩せた背中は、ふと見ると特に痛々しい。ふと、それに気づいてしまう、ざらりとした罪悪感。百三十キロまで出る向こうのボックスでは、さっきの高校生がくろいバットを手に肩を回している。なめらかにぴんと張った筋肉を十二分に使う、これ以上に愉しいことはないという顔をして。ぎぃんとひときわ高く鋭い音で弾き返されたボールは、ネットの上の方に貼られたホームラン表示に突き刺さって落ちた。バックスクリーン一直線。完璧なセンター返しだ。壁山のようにベンチで見ていた友人らしい数人が、おおげさなくらいにぎやかに拍手をしている。
ボックスの中からそれを見ていた少林寺が、からんと高い音を立ててバットを落とした。手ぇいたーい。芝居がかった乾いた口調。つま先でグリップを器用に蹴上げて、肩に担ぐように持ち上げる。この前さぁ。ポケットから小銭を出して機械につっ込みながら、少林寺はひとりごとみたいに言った。目金先輩からマンガ借りたの。へー。なんのマンガ。なんか、ボーケン物?っぽいやつ。ピッチングマシンが再度動き出す。おれさー。びゅうびゅうと素振りをしながら少林寺は続ける。本とか読んでおもしろいとか、全然思わないから、さー。やや手元で落ちるボールを器用に流しながら、少林寺は歯を見せてわらっている。表紙だけ見て返しちゃった。へえ。壁山は目をまるくする。らしいなーと内心思いながら、先輩おこった、とたずねる。それがさ、おこんねーの、目金先輩。いいですよーって。なんも言わないし。あー、と憂鬱だかなんだかふかく息を吐いて、少林寺は言葉を切る。ボールの方に意識を向けたいだけではなく、ここから先をあまり言いたくないのだということを察して、壁山はベンチを立った。
ペットボトルのウーロン茶を一本買って戻ると、少林寺は最後の一球をまっすぐに弾き返したところだった。いいとこポテンの、ホームランにはほど遠い、それでも流れ星みたいにきれいな打球。少林寺が扉を肩で押し開けるように出てきた。汗が顔を伝っている。それを手の甲で拭ってやると、照れくさそうに少林寺はわらった。壁山はさ。うん。やさしいよね。えーどうかなー。ああと、目金先輩とかも、やさしいね。そうだね。おれはさ、あんまりやさしくないから。少林寺は痛いような顔をして、まっかになったてのひらを見下ろしている。だから気づかないんだ。全然。ばかだから。壁山は言葉につまる。少林寺がここのところ不調なのは誰の目にも明らかだった。だけどそれに対する原因だの不平だのを少林寺は誰にも言わないし、いっそ虚しいくらいにがむしゃらにプレイし続けるその背中は、痛みを通り越して憐憫さえ誘う。目金はそれに気づいていたのだろうと壁山は思った。苦心して選んだ、励ましだったのだろう。あのひとの中にも葛藤がある。選手としてはなにも言えない葛藤が。
壁山はふと百三十キロのバッターボックスを見た。くろいバットの高校生は、にらむような目でマシンを見ている。友人たちはもういなかった。たったひとりで彼はバットを振る。ホームランはもう打てない。世の中から辛いことや苦しいことがすべて消えて、楽園みたいな世界になったとしたら。きっとあの高校生や少林寺みたいなひとこそ、その世界で生きていくことはできなくなるだろう。喜びばかりをかき集めて幸福を知ったような顔をするひとには目もくれず、絶望の中にひそむ絶対の自由を、彼らは注意深く拾い集めて大切にする。そのために捨ててきたものの数も重さも、彼らは思うことはない。
壁山は濡れたペットボトルを差し出した。ありがとーと少林寺は顔を輝かせる。目金や、そして壁山さえも、少林寺を想っている。そのやさしさを想っている。なにも気づかない鈍感な手で、惜しみなく与える少林寺。ぼろぼろに皮がめくれた傷だらけの手のひらに、本当は持っていないものなんてなにひとつないのだ。むせかえる夏の夜にすだく虫の音が乾かす現実。ぽっかりと不幸で、それでいて幸福なバッティングセンター。少林寺が抱く絶対の自由を、壁山はなによりいとおしく思う。言葉には出さず態度にも出さず、それでも誰よりもなによりも、うつくしくいとおしいと微笑む。







スタテュ・オブ・リバティの肖像
壁山と少林寺。
嘘がうまいひとになりたかったと思う。周りがみんなよくわからないひとばかりだったのだ。たまに遠くと近くがちぐはぐに見えたり、そのせいでぶつかったり転んだりすることが多かった。鼻はその名残で、いまだに少し歪んでいる。父方のじいちゃんはおまえはロンパリでかわいそうだ、というようなことをよく口に出して、父親とか母親とかにいやな顔をされていた。ばあちゃんは特になにも言わなかったけれど、ときどき左のまぶたに指を当てて、ここを見てごらんと不思議なことを言う。じいちゃんは今ではロンパリと言わなくなったけれど、これは今も習慣として続いている。視界にぼやけて映るばあちゃんのななめになったつめたい指。周りはみんなよくわからないひとばかりだった。何もかもおかしいと思っていて、それは今も引きずっている。どうしてかはわからないが、車に乗るのもあまりすきじゃなかった。信号はひとりでは絶対に渡らせてもらえなかった。
ときどき影野が自分をじっと見つめていることを、栗松は変なひとだなと思いながらもかすかな嫌悪感とともに甘んじて受けていた。不注意なのかなんなのか、栗松は練習中によく他のプレイヤーと接触することが多い。体格差でだいたいは栗松が弾かれるのだが、そうして怪我をするそのたびに影野は栗松をじっと見ていた。なにかを考え込むように、じっと。
以前、ひとのめったに通らないふるくてぼやけた歩行者用信号の前にずっと立ち尽くしていたら、近所のひとが不審な目でこっちをうかがっていたことがある。別にすきで立っているわけではなかったのだが、あのときのかすかな、本当にかすかな嫌悪感にそれは似ている気がする。嫌悪感と、不条理。自分の周りには、よくわからないひとがたくさんいる。理由がまるでわからない。そのあと後ろから来た自転車のおっさんと一緒に信号を渡って、それから二度とその道を通らないようにしようと決めた。そうやって少しずつ、自衛を身につけている。
栗松、と呼び止められたときに、部室にはふたりしかいなかったので居心地が妙に悪かった。なんですかと振り向くと、ちょうど逆光になった窓際に影野が立っていて、そのシルエットが不気味で気持ち悪かった。影野は骨がでっぱった肉の薄いがたがたの手首と指をしている。その手が、ぬうと栗松の額に触れた。栗松の家族は。ぼそぼそと呟き、そこでうん、と考えるように首をひねり、嘘が上手だね、と言った。は。なにを言われているのかよくわからなくて栗松がぽかんと口を開けると、だって知らないんだろ、と陰気な口調で影野は続けた。重たい前髪の下から重たい視線を寄越しながら、にこりともせずに続けた。
少林寺と一緒に弁当を食べていると、おまえってときどきすごいとこ見てるな、と言われたことがある。意味がわからないので首をかしげると、少林寺はじれったそうに左目のまぶたを(ここを見てごらんとつめたい指でやさしくさわるばあちゃんのように)押さえて、こっち、と言う。左、たまにすごいとこ見てるよ。それでも何のことかよくわからなくて黙っていると、少林寺は驚いた顔をして、それからちょっとわらって、そうだよなとへんにやさしく言うのだった。自分のことじゃわかんないよね。別におかしくないよ。おかしいとかおかしくないとか、まずそれがよくわからないので適当に神妙にうなづいておいた。にんじんとブロッコリは口に入れるまで区別がつかないということは、そのときは黙っておいた。
歩行者用信号、上と下で違う色してるんだよ。影野は陰気な視線で陰気な口調で、それなのにやけにせつなげに、そう言った。にんじんとブロッコリは、色で区別がちゃんとできる。あと、壁山と宍戸って、髪の色違うんだよ。栗松はまばたきをする。影野が一瞬ものすごく遠くに遠くに見えて、だけど次の瞬間には額に手を触れてそばにいた。うすいくちびるが動いている。奇妙に、陰気に、それ以上に痛々しく。知ってた。知らないんだろ。
(知らないんだろ)
それから数年後、ひとりで信号を渡ろうとしてそれは見事に車にはねられた。血がものすごく出たけどただ鉄くさいだけの液体だった。あっという間に病院に運び込まれて、ついでに目の手術もしてくださいと母親は頼んだらしい。再生不可の左の鼓膜と左目をぐるぐるに巻かれて、そんな風にしておいて神妙な顔で医者は言う。うんてんめんきょのしゅとくわおすすめできません。ひかえられたほおがいーかとおもいます。わるいことわいわないのでやめておきなさい。みどりとあかの、緑と赤の区別がつかないのは致命的です。ちめいてきです。
十八のときに免許を取って、あのときの手術が斜視矯正のものだと知った。じいちゃんはもうロンパリと言わないし、ばあちゃんがつめたい指でまぶたを押さえることもしなくなった。信号の区別はまだできないので、上下左右で覚えて理解した。嘘がうまいひとになりたかったのは、周りがみんな嘘をついているからだと思っていたし、あの頃確かに自分は限りなく自分だけの世界に棲んでいた。望みもしなかったのに。周りには今もよくわからないひとがたくさんいて、だからあの頃身につけた自衛をいまだに全身にまとっている。自分にはそうするしかないと気づいてしまったのだ。陰気な口調で知ってたと問われて、知らなかったとしか答えることのできなかった自分には。
栗松が自分が色盲だと知ったのも十八のときだった。嘘がうまいひとには、今もなりたいと思っている。








だって!本当は!クレイジー!
栗松と影野。
栗松が色盲で斜視だといいな、というはなし。あと影野がアスペルガーだとこんな感じかな、というはなし。
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無印雷門4番と一年生がすき。マイナー愛。

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