ヒヨル かげののはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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くしゃ、とやわらかくふわふわの髪の毛を押さえられ、宍戸は肩ごしに振り向いた。じめつく部室の裏には背のひくい雑草が貧相に生えており、濃いみどりのじゅうたんのような苔が、むしむしとたくさん壁にへばりついている。髪の毛を押さえる力加減や手の感触で、なんとなく宍戸はその手の持ち主に気づいていて、だけど反射的に振りむいてしまったので、なにも言えずにへらっとわらう。笑みを投げかえすこともしてくれない、髪のながいその姿。うすぐらいそこにぼんやりとしゃがみこんで、しかもそれは練習中のことなので言い訳もできない。どうした。そっけなく影野が言う。宍戸はこの無愛想で寡黙な変わりものの先輩のことを、ほかの人が言うみたいには、近寄りがたいなどとは思っていなかった。むしろどちらかと言えば好感を持っていて、だからこそ顔には出さずにおおいに戸惑う。練習中にこんなところでサボっていた、とは思われたくなかった。あのうそのうと言葉につまると、影野は宍戸からすこし離れ、グラウンドのほうをこっそりとうかがうように首をのばす。グラウンドからは歓声が、とおい潮騒のように響いてくる。誰もこない。影野はそう言うと、宍戸の言葉も待たずにとなりに腰をおろした。膝をかかえて、そこの空気を確かめるようにふかく息をする。先輩、どしたんすか。結局宍戸もまた、部室の外壁に背中をあずけてしゃがみこむ。尻と背中がひやりとして、首のうしろがざわざわする。あのーおれ、別にサボるとかそーゆーつもりじゃないんすよ。なんつーか一回立っちゃったら、戻りづらくなっちゃって。ついふらふらーっとこんなとこに来ちゃったんすよ。先輩にもそんなことないっすか?ないっすよね。はは。影野のつもりがわからないので、宍戸はつらつらと意味のないことをまくし立て、されない返事をひと呼吸分待って、結局言葉を自分できった。すんません。普通に呼吸をしたつもりが、思わぬふかいふかいため息のようになってしまって焦った。どうせ連れもどされたあとで怒られるに決まっているのだから、それならば来てくれたのが影野でよかったと宍戸は本気で思っている。これでもし、風丸や染岡や、ましてや円堂なんかが来たら、ため息どころの話ではすまないだろう。なのに。先輩わりーんすけど、このままほっといてもらえませんか?無理すかね。無理すよね。となりで膝をかかえる影野の、かたちがくっきりとでっぱった骨をながめながら宍戸は言う。無理すよね。日がまったく当たらない部室の裏に吹く風はつめたい。ひやりと腕をなでられて、宍戸はそこをてのひらでこする。まだうらうらとあたたかい時期なのに、かすかに腕が粟立っていた。指さきに生理的に嫌悪感をもよおすそのぶつぶつを感じていると、ああ、と影野が声をだした。ペリカンを。は?おまえはペリカンを知っているか?は、あ。まぁ、わかりますけど。質問の意味がわからずに宍戸は首をひねって影野をみた。ながい髪でほとんどがおおわれているその横顔が、先輩のいちばんイイ角度だと宍戸は思っている。そのくちびるがひらいていて、宍戸は次の言葉を待った。ちいさい頃に動物園でペリカンをみたんだ。はぁ。あの、喉のとこの。袋すか。そう、それが。影野は膝にまきつけていた手をほどいて、それを広げて動かした。こんな風に、ふくらんだりしぼんだりしてた。そのしぐさが影野に似合わずコミカルで、だけど宍戸はその痩せたてのひらをじっと見ていた。そのときはわからなかったけど、あれは求愛行動だったみたいでな。ただ俺には、あれがほんとうにきもちわるかった。宍戸はちらりと影野の横顔をみる。きもちわるいと言うくせに、そんな様子はみじんもみせない。見るんじゃなかったって後悔した。それで。影野はそこで唐突に言葉をきって宍戸のほうをみた。宍戸が首をかしげると、今度は広げたままの手をみて、それをそっと髪の毛にすべらせる。どうやら影野は恥じらっているらしく、それに気づいて宍戸はやけに動揺した。しゃべりすぎたと後悔するべきは。すまない。耳のさきをわずかにあかくして、前髪を片手でいじりながら影野は言った。世間話のつもりだったんだ。え?そんなに真剣にきいてるから、申し訳なくて。影野の横顔が照れくさそうにわずか伏せられる。宍戸はただ影野の痩せたてのひらやひじや、無機質な横顔をながめていただけだったのだ。後悔するべきは影野ではない。それで、なんすか。だから宍戸は続きをうながした。背中を奇妙なあつさがかけあがってくる。とにかくもっとしゃべっていてほしかった。後悔するべきは。それで。影野がくちびるをひらいた。それ以来俺は生きものがきらいになった。言葉をすべて聞きおわるまえに、宍戸が伸ばした手が影野の二の腕をつかむ。後悔するべきはいつだって宍戸だった。影野の腕はつめたくすべらかで、宍戸をおおうきもちわるいぶつぶつはどこにも見当たらない。来てくれたのが影野でよかったと本気で思っているのに、こぼれるため息がどうしてもとめられなくて、だからほうっておいてほしかったのだ。ひとりですべてを消化するつもりでいたのに、なんとかするつもりでいたのに。先輩やっぱもどらないでください。いてください。口をついて出た言葉はなにより宍戸を驚かせた。後悔するべきは自分でしかないと、宍戸はちゃんとわかっていたのに、それを影野がそんなふうに破っていくから。そんなふうに、やさしくなんてしてくれないのに。
とおい潮騒に重なるようにかん高いホイッスルの音がして、腰を浮かしかけた影野の腕を、しかし宍戸ははなせなかった。湿った土と貧相な雑草と濃いみどりの苔につめたい風が吹くそこで、このままふたりでなにもせずに座っていられたら。そんなことを宍戸は夢想する。影野の腕をつかむ宍戸の指に、やわらかくすべらかな髪の毛が落ちかかり、それを上から影野のつめたくかわいたてのひらが押さえた。思えば。やわらかい声音が、今度は宍戸の中に音もなくおしこめられた、ひび割れてささくれた部分を刺激する。あのときのペリカンはなにも悪くなかったんだ。ただ、俺はいまだにあのときを上回るなにかを、感じることができないでいる。なんでかな。影野のほそい肩に顔を押しつけた宍戸には、影野の言葉がかすかな振動になって、直接骨にひびいて聞こえる。そのほうがいいな、と宍戸は思った。なんかちゃんと聞こえてる、って感じ。影野からはなんのにおいもしないし、だから今はかすかに土と雑草と苔のにおいがする。影野からはなんの音もしないし、だから今はグラウンドからのざわめきが鼓動のように聞こえる。先輩。ぼそりと口をついてでた言葉はしあわせだった。それでもしあわせだった。たとえ今、誰にもどうにもならない傷が、ばっくりと口をひらいて宍戸を飲み込もうとしていても。ため息をはてしなくこぼしながら、それでもそれを涙のかわりに宍戸はできる。ほかの誰がそれをできなくても、宍戸には、それができる。おれ先輩のことけっこうすきっすよ。だから言葉を止めなかった。なるべく冗談に聞こえるように、そう思いながら。うん。影野の横顔はしずかに頷いた。俺もおまえのことはけっこうすきだ。ひひっと宍戸はわらい、じゃあソーシソーアイっすねやっべぇうれしー、と言った。自分がペリカンなら、かつて影野の記憶の中の個体がしたという求愛行動をこのひとにしたいと思った。それがこのひとの最初の衝撃を、たとえ上回ることにならなかったとしても。おまえは、きらいになるなよ。影野がしずかに言った。その言葉が必死におしこめたものを少しゆるませ、あわてて宍戸はまたそれをしっかりと押さえつける。なにをっすかと軽口を叩きながら、それでも影野が言いたいであろうことに宍戸はすっかり気づいていた。返事は今はできない。あー。どうしようもない感情は、言葉になってあふれるしかない。先輩なんでおれんこと怒ってくれなかったんすか。無理にでももどらせなかったんすか。なんでほっといてくれなかったんすか。なんで。なんでだろうな。宍戸の手をおさえていたつめたいかわいたてのひらが、今度は髪の毛をくしゃりとなでた。それが最初にされたときとまったくおなじ力加減で感触で、のどの辺りがあつくひりついた。影野はもう一度、なんでだろうなとひとりごとのように繰り返した。影野はわからないことを恐れもしないし、それをうとましがることもない。そうしてわけもなく影野は宍戸の思いをくじいていく。宍戸が怖くてうとましくて仕方がないものをたくさん抱えたまま。たまらなくなって宍戸は腕をそのほそい首にまわした。すべてのことが宍戸から消え失せ、ああこのひとの体温はとてもひくい、と思った。しあわせだった。かなしい顔なんかしてくれないくせに。だからないたりするものか。ないたり。







伽藍鳥のワルツ
宍戸と影野。ねじれて空の続きのようなもの。
書きたいものがうまくまとまりませんでした。
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影野の背中は痩せていて、背骨がうっすらとまるくたわんでいる。ひふがうすくて色がしろく、だけどながい髪の毛がそこをやわらかくおおい隠すので、こぶこぶの背骨やとび出た肩甲骨を、普段は見ることができない。ひょろひょろと背が高いけれど猫背ぎみで、地面にすわるときはいつも膝を抱えているその奇妙な同輩を、松野はおそらくすきだった。ようす。松野は挨拶がわりに、いつも影野のうしろに立って膝かっくんをする。これがおもしろいほど毎回決まるので、いくらやめろと周りに言われても(影野はそんなことは言わない)やめられない。影野が膝を抱えているときは、こころもち膝をまげて、それを背中にぶつけてやる。膝かっくんも膝タックルも、くらわしたあとに影野がやわらかく、松野、と呼ぶのが松野はすきで、だから松野は影野がすきだった。おまリアクションまじうすい。そうかな。そーだよつまんねーよ。いつものように膝かっくんで転ばされたあと、松野が言うその冗談みたいな言葉に影野は真剣に考えこんだりする。つまんないか。影野のよれた制服のズボンのすそから足首がのぞいていて、いそいで上履きを脱いだ足でそこを、うりゃ、とやわらかく松野は踏んづけた。昨日落とすのを忘れたペディキュアのエナメルが、足の指の先でてかてかにひかっている。松野は靴下をはくのがすきではない。足首には南米みたいな色のミサンガと、ヨガをするひとがつけてそうなくろいゴムの輪をかさねている。いい色だな。廊下にくずれ落ちて足首を踏ませたまま、影野は松野のペディキュアをおそらく見て、そんなことを言う。極彩色ばりばりでぎらぎらのラメラメの、目がいたくなるようながちゃがちゃしたその色を、誰もが趣味のわるい色だと言うのだ。五指のすべてにちがう色がはりついていて、それらは全部つぶのこまかいラメでひかっている。ねぇ起きなよ。松野がそう言うと、影野は足を踏ませたまま器用にからだをねじって、片膝を抱えた。松野。影野が肩のあたりにわしゃわしゃになった髪の毛を背中にはらう。松野はペディキュアとミサンガと輪っかで飾られた足をふりあげて、しろいかかとで影野の肩を、とん、と蹴った。戸惑うように影野はそれを見て、言うべき言葉をたぶん懸命に探し、それが見つからなかったためにぼそりと言った。ごめん。あーあの背中にはりつきたい。松野は帽子の耳のところをいじりながら、だけどそんなことを考えていた。あーあの背中にはりつきたいあの背中にもうすき間なくぴったりとはりついて息ができないくらいになりたいっていうか息なんてしなくてもいいくらいべったりしたいきもいって言ってひかれるくらいべったりしたいもうむしろあそこで同化したい影野影野影野影野。影野。影野は膝を抱える。松野はうしろに回って、背中に膝をうちつけた。かーげーのー。じーん。じんじん。影野のやわらかい髪が膝でよじれる。この髪の毛と学ランとカッターシャツとインナーの奥にうっすらとまるくたわんだこぶこぶの背骨やとび出た肩甲骨が、ある。だめだ、と思った瞬間には、いさぎよくすることを松野は普段から心に決めていて、だからそれが襲いかかってきて思考がふさがれてしまうその寸前に、ばいばい、と去った。なるべく影野を見ないようにして、だけど教室にとびこむそのときに、視界のはしで影野がゆっくり立ちあがるのが見えた、気がした。
教室の扉を思いっきり開けて思いっきり閉めると、反動でばしんとまたほとんど開いた。いらついたので音をたてて椅子を引いて、上履きをすっかり脱いだ足を机の上で交差させる。上履きは片方廊下にわすれてきた。影野が持ってきたらぶち殺してやると松野は眉をしかめるが、結局それを持ってきたのはおなじクラスの友人だった。あの髪ながい子から渡されたよとの言葉に、俺あんなやつしーらね、と答える。あの背中に。(あの背中にはりつくことができるなら)(おれはきっとどんなことでもするのに)。だから松野は影野がすきだった。そういうわずわらしいうっとうしい感情を、影野の手でわすれさせてくれるのだから。つーか俺明日から髪のばすわ。松野は友人を見て、にやっとわらう。松野の思考の隅では、いつも影野がしろい背中をさらして、膝を抱えてすわっている。どうせすぐ飽きるんだろ。わらいながら投げ掛けられる言葉に、やはり松野は反論のすべを持たなくて、だからうるせーはげ、と言ってやった。俺の気持ちなんてわかるかよと言うけれど本当はわかってなんてほしくない。全然ない。ただ影野がわかってくれてればいい。踏んづけたしろい足首が、やっぱりほそくてうれしかった。思考の隅で影野は繭のようにうずくまる。しろい背中がこちらを向いている。肩甲骨がラメラメの極彩色の羽になって、だけどそれを松野は踏んづける。何度も何度も、踏んづける。影野がわかってくれていれば、それだけで松野はかまわないのだった。影野のことを、松野はとてもとてもすきだった。だけど松野は無力だった。無力だった。






下り坂にて
松野と影野。自分が影野のことがすきなのを、自分以外の誰にも知られたくない松野。
松野と半田は個人的にかなりチャラい厨房です。
そしてタイトルのセンスが実にわるい。
雨が窓をしずかに叩いている。しずかにしずかにひたひたと叩いている。
四角く切りとられたそこには風も音もないので、普段はすこし苦しい呼吸がそのときは妙にはやくなる。横隔膜を骨と筋肉のうえから押さえつけられたような気持ちで、思考がやたらとくるくる回る。彼はゆっくりと膝をまげて蒸れたコンクリートの隅にかがみこんだ。もてあまし気味のながくほそい両手をまげた膝にまきつけて、でっぱった骨に額を押しつけるとそれで彼の世界は完成する。湿気でかすかにきしむながい髪の毛が、その肩や背中や腕のひふにしっとりとやわらかくまといついて、そうして四角く切りとられた場所からさらにまるく彼を切りはなしていく。
風も音もないその場所は彼のすべてで、彼にはそれしかない。何もかもをこらえるようなその姿勢で受け流し、他の誰が踏みこむことをもよしとしない彼のすべて。だけれどそれらは実に悪意なくうち破られる。ふと四角く切りとられたその場所に踏みこんだ誰かの足が、やわらかく止まるのを彼は感じる。じんちゃん、なにしてるの。日に焼けた指がそろっと、うつむいたままの彼のあたまに、髪にふれた。彼は顔をあげない。彼の世界は、そこにしかない。じんちゃん。名前を呼ぶ声はおだやかでねむたい。悪意のないその声は、だけど彼の世界をやさしくつき崩す。はやくせわしない呼吸がゆるゆると速度をおとし、やがてのどを溢れかえったなにかがぴったりとふさいでしまった。彼は身じろぎもせず、髪の毛がひとふさゆっくりとすくわれる。あたたかいてのひらがそっと彼のあたまを包み、砂でざりざりのコンクリートをスニーカーの底がひくく掻いた。雨が。
雨が窓をしずかに叩いている。しずかにしずかにひたひたと叩いている。心臓が彼の血液をしずかに叩いていて、呼吸が彼の横隔膜をしずかに叩いている。日に焼けたてのひらが彼のそばのコンクリートをしずかに叩き、崩れかけた彼の世界はおおきくゆらいだ。どうかこれ以上なにもしないでと、まるい世界を内側から彼はしずかに叩く。雨が窓をしずかに叩いている。しずかにしずかにひたひたと叩いている






ロマンス
土門と影野。
姉は毎朝、通学中にiPodで聴く曲をおれに決めさせる。ちいさくてうすべったいむらさきのiPodには数えきれないほどの曲が入っていて、部屋をぱっと開けてじんくん今日どれ聴こうか、とたずねるのが姉の日課になっている。今日も制服に着がえて髪もちゃんと結わいた姉が遠慮なく扉をぱっと開けて、でもそこで立ち止まる。あかい顔をしてぐったりと寝ているおれをみて、じんくんかぜ?とひとりごとのように言う。おれがなにも答えないのでおかあさーんと部屋の中から母親を呼び、父親を送り出した母親がひょいと顔をのぞかせた。水仕事をしていたつめたいてのひらでおでこやほほやくびをぺたぺたとさわり、あー熱があるね、と言った。じんくん具合わるい?どっかいたい?姉が顔をのぞきこんできて、あんたは早く学校いきなさいと母親に促される。欠席連絡しとくから寝てなさい。病院は?いきたくない。そう。なんか食べたい?いらない。とりあえず寝てなさい。ごはん持ってくるから。そう言ってふとんを肩まできちんとかけ直して、母親は出ていったかと思うとすぐに戻ってきた。あおい冷却ジェルのついた湿布の親戚みたいなのを髪をかきわけておでこに貼る。顔が外に出ているのはなんとなくこそばゆい。
味噌汁とごはんを机の上においてポカリを枕元において、母親も出勤していった。関節がだるくてあたまがおもい。髪の毛のおもさが増したみたいであたまがまくらにずぶずぶ沈んでいくような気がする。からだは頑丈なほうだけど、半年に一回くらい具合がわるくなってそのうち年に一回とか二年に一回くらいはこういう風に熱をだす。前に熱を出したのは中学校に入ってしばらくしたころだった。あのときもえらくだるくて、病院に連れていかれてふとい注射をうたれた。記憶というよりそれは夢だったようでふっと目をさます。冷却ジェルがつめたくぶよぶよとひろがって顔がおおわれていくみたいな感覚がきもちわるくて、結局それをはがしてしまう。のどのあたりが熱でへばりついてしまって息がくるしい。からだをちょっと持ちあげて、つめたいポカリをひとくちのむとうっと吐き気がこみあげて、トイレに駆けこんでだいぶもどした。髪の毛を唾液がつたっていってきたない。あーとため息をつくとまたにがいものがのどを逆流してきた。
トイレの扉をぴったりとしめて、ひざを抱えてうずくまる。からだのなかがむかむかするので深呼吸をたくさんしたら芳香剤のオレンジのにおいが鼻についてまたもどす。昨日も食欲がなかったからあまり食べなかったのに、へんな色のねばねばみたいなのがたくさん出た。涙と鼻水がぬぐってもぬぐってもだらだら出るのでなんかもうつらくてまたうずくまった。そのまま少しうとうとする。おおきなてのひらにゆっくり押しつぶされて声も出せずにぺちゃんこにされるというとにかくいやな夢を見た。うずくまったまま汗びっしょりで目をさます。首のあたりがだるい。携帯がちかちかしていたので手にとって通話キーを押す。じーんじんじん。げんき?いまなにしてんの?松野のへらっとした声が耳にとどく。あーうんと半端に返事をすると、電話の向こうの声がかわった。松野の携帯はサッカー部全員を順ぐりに回って、みんなそれぞれいろんなことを言った。今日の授業はつまらなかったとか、昼の弁当をうっかりひっくりかえしそうになったとか、居眠りしていたら先生にやたら怒られたとか、今からお見舞いに行ってもいいかとか。明日にはでていくからこなくていいと言うと、じゃあ絶対来いよと染岡は言った。絶対だぞ。待ってるからな。その言葉を聞いてから電話を切った。のどのあたりがいがいがしてだけどうれしくて、しゃべってよかったなと思った。
そのときがちゃっと扉が開いて、おれは後ろにぱたっと倒れた。じんくんねてなくていいの?姉がおどろいたように立っている。いま何時?もう五時だよ。姉はおれのわきの下に手を差し込んでずるずるひっぱった。そのまま部屋まで連行される。じんくん汗びっしょり。着がえれば?ベッドにごそりともぐりこむと、そんなことを言いながらその足元に姉が座った。今日おとーさんもおかーさんも遅いよ。なにたべる?そこまで言って机のうえにおかれた手つかずの食事を見て、ピザとってもいい?と言う。今日なに聴いたの?返事をせずにそうたずねた。んー椿屋四重奏のアルバム。じんくんが選ぶの洋楽ばっかだから新鮮だったよ。携帯をぱかんとひらいてピザ屋に電話をかけ、電話をきってらーららーと椿屋四重奏を姉は歌いだした。ポカリをひとくちのんだけど今度は吐かなかった。明日にはたぶん学校に行ける。着がえてこよっとまたあとでねと姉は部屋を出ていったので、はやく夜になればいいと思った。おれも立ちあがってパジャマを脱いだ。今日の夕食はミックスピザ。






ようこそトラペジウム
影野と姉。
影野には休日にあまり遅く起きる習慣はない。せいぜいがいつもより一時間ほど遅く起きる程度で、それでも起きるとだいたい家の中はしんとしている。休日など関係ない様子の家人は、影野が見るかぎりいつもとても忙しい。ひとり分のラップのかかった朝食がひっそりとテーブルに置かれていて、朝はどうしても食欲がわかない影野は気が向くまでそれには手をつけない。
ながい髪の毛を洗面所でとかしてため息をついた。フローリングの床は、はだしの足のうらには少しばかりつめたすぎる。抜けた毛を一本つまみ上げてごみ箱に落とす、その緩慢なしぐさにいちいち朝の倦怠感がまといつく。血がからだにめぐりきっていないし、時計のはりはまだ九時にもなっていない。姉の部屋は扉がぴったりと閉められたままで、そっとそこをノックすると、今寝たばかりだからほうっておいてくれというような言葉が返ってきた。朝食がひとり分だったのはだからかと、影野も結局それに手をつけずに部屋に引っ込んでしまう。
着替えもしないで、ベッドの上でひざをかかえてまるくなる。半分ねているような起きているようなその感覚に、頭のさきまでしずかに浸かっていく。何もしない時間をつくることをいとわない影野は、この姿勢で過ごそうと思えば一日だって平気で過ごすことができる。感覚器官の大半をゆるやかに閉ざして、思考すら放棄して、からだの内側をどんどんからっぽにしていく。
しかしこうして時間を過ごすとき、からだの中からおい出されたものは毛穴だかなんだかからそこらじゅうの空気に発散していく。それは呼吸とともにまた影野の中にとり込まれるので、息をするたびに流れ出してしまったものは、呼吸を介して必ずからだの中に戻されてしまう。それがたまらなく苦痛に感じる瞬間がときどき訪れてそれに耐えることが、本当にまれに、できなくなる。なのでおい出すべくして出してしまったものをまた中に迎え入れるその感覚を、影野はすかない。
意識の裏側をざらりとしたなにかで撫でられるような、不愉快きわまりないその感覚は、ときどきともすればなきだしてしまいそうなくらいの衝動を影野にもたらす。そうしてそのくらいのちからづよいうねりを持ったなにがしかの感情が、自分の中にもあるのだというその認識が影野を驚かせ怯えさせ、それを疎ましがらせる。思い出したくないことはおい出すそばから意識にねじ込まれていくけれど、息を止めることだけは、どうしてもできない。
じんくん。部屋がしずかにノックされる。手のひらで叩くように、かわいたひらたい、よわよわしい音で。じんくん、ごはんたべなよ。姉の声ががさがさと嗄れている。きっとまた夜通しないて、さっきもないていたのだろう。じんくん。姉は人にすがることがとても下手だ。会話のすくない家族の中で、姉だけはたくさんの主張をする。それらは誰の中にもしずんでいって、しかし影野の中からは浮かび上がることはない。多くの言葉を費やすことをいとわない姉と、口を閉ざし続けることをいとわない自分。じんくん。姉の声がみるみる涙にぬれる。じんくん、ごはん、たべなよ。
今いく、と言おうとした声が、なぜか喉にからんだ。なきだす手前の、その一瞬のあつい静寂がからだの中にさざ波のように広がって、そのほかのすべてを駆逐していく。吊られたようにたち上がり、扉にそっとてのひらを当てた。なきじゃくる姉の声が痛々しく鼓膜を振るわせて、そうして影野は息を止めた。水を打ったような静寂が、自分のするなにかで消えてしまうことを恐れた。
扉をはさんでふたりともどんどんと絶望していった。部屋の中にはき出した自分の感情に影野はずくずくと傷つけられていく。動くこともできずにいる影野に、姉は答えの返らない言葉をなきながら投げてよこす。じんくん。じんくん。じんくん。影野のほほには涙は流れなかった。それはとっくにこの部屋の中に、はき出してつぶしてしまったものだ。空腹がようやく影野のからだに訴えかける。おいていかれた涙では到底、腹などふくれるものではない。







おいていかれたあお
影野とその姉。家族捏造。
なんとなく影野には姉さんがいそうです。
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無印雷門4番と一年生がすき。マイナー愛。

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