ヒヨル かげののはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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稲妻町から電車でおよそ一時間、観光地の穏やかな砂浜の片隅に、くじらの骨が流れ着いたというニュースが流れた。波に磨かれ破損の少ない、しろいうつくしい骨だったといい、通常なら海底深く沈んで多数の生態系を養う温床になるそれが、なぜ砂浜に流れ着いたのかはわかっていない。原因の調査とくじらの生態解明のため、サンプルはしかるべき機関によって回収・研究されるという。ニュースはそうやって結ばれて、そこまで観て姉はテレビを消した。やなもの見ちゃったと言って食器を片づけ、足早に部屋に戻ってしまう。影野はひとりもくもくと食事を続け、その日は早いうちに寝てしまった。
グラウンドは長雨に底まで水が染みてしまい、緊急のメンテナンスをしている。重機がそこかしこに並ぶグラウンドを見ている少林寺の隣に無言で並び、影野もまたグラウンドに視線をやる。掘り返された湿った土はどことなく哀れっぽく、濁った曇り空に押しつぶされてよけいに憐憫を誘った。干からびた水槽みたいだ、と思ったのは、のたりとうずくまる重機たちが、死んだくじらの群れのように見えたからだ。錆びた海原に捨て置かれた、しろいうつくしいくじらの骨。少林寺は黙ったまま立ち尽くしている。ひどく姿勢がよいその姿が、健全すぎるために却ってちぐはぐに見えた。なにを見ているのか、影野にはわからない。海はすきか。唐突な言葉に、少林寺は無言で影野を見上げた。まるで予定調和のような自然さで。海は、すきか。影野は再度問いかける。少林寺はまばたきをして、じっと影野を見上げている。
骨が。影野はゆっくりとくちびるを開いた。流れ着いたって。静かな言葉を、むやみに連ねる。くじらの骨だ。きっと、すごく大きい。指を伸ばして、少林寺のしろいこめかみに触れたのは、無言の少林寺に堪えかねた、からかもしれない。どこを見ているのかわかりづらいくろい目。きゅっと閉じたけなげなくちびる。可憐な少女にも似た、ぞっとするほどいたいけな佇まい。しっとりとやわらかなひふの、その奥には。おれは海がきらいだ。指先を少林寺に触れさせたまま、影野はひとりごとみたいにつぶやく。あれは、いやなものだ。
少林寺はまぶしいみたいなしぐさで目を伏せ、ちょっと首をよじって、閉じたくちびるをへの字に曲げた。先輩。耳に心地いい、凛とした声。先輩、なにを見てるの。ここは海じゃありません。なんにもない、ただの場所です。影野は髪の毛の奥でまばたきをして、わずかに首を横に振る。くじらが死んでる。おまえこそ。なにを見ている、と問いかけようとして、影野は唐突に口をつぐんだ。少林寺に触れた指を一瞬びくりとこわばらせる。なぜか突然、すうっと体温が下がったような気がした。少林寺は影野を見るのをやめて、またまっすぐに前を見つめている。ひたむきなほどに。湿気を含んだ空気が溺れそうなほど押し寄せて、影野は胸につかえた空気を咳き込むように吐き出さねばならなかった。少林寺はすっと腕を伸ばし、遠くの、どこともしれない場所を指さす。このずっと先に、ニジニャヤ・ツングースカ。その向こうにイェニセイ。くじらは、シベリアの海にいます。
影野は喉の辺りにねたりとした重みを感じてくちびるをうすく開く。今も、いるのか。少林寺は腕を下ろし、さあ、とちょっと首をかしげる。少なくとも、ここにはいないと思います。影野はじっと少林寺を見つめる。少林寺はまっすぐに前を見つめている。骨が、ほしいんだ。くじらの骨だ。それがなければ。そこまで聞いて少林寺はぱっと影野を見上げた。言ってはだめ。少林寺の奥に燃え盛るもの。揺らめくもの。時に牙を剥き、爪を磨いではとぐろを巻くもの。先輩に足りないのは、『それ』じゃない。少林寺の奥で吼えるもの。闘争心。生の根幹。ふるく誇り高いけだもの。シベリアの海のくじらたち。影野がその奥に光差す闇を飼い、月の浮かぶ夜を沈めるように。錆びた海で骨を孕む雄大な肉のように。ひとのかたちの願望。先輩に足りないのは、
(わかっているさ)
影野は手を伸ばした。(わかっているとも)少林寺のほそい二の腕をそっと掴む。少林寺は影野を見る。予定調和のような自然さで。けなげに閉じたくちびると、少女のような佇まいをして。それならば『それ』は、おれとおまえで喰い尽くそう。ひとのかたちの願望。打ち上げられたくじらの骨。それはどんなにかどんなにか、欲しかったものだろう!どんなにか、求めていたものだろう!今はない。求めてはならない。それでかまわない。(だってそうじゃなければ)ひとりでは、始めることすら叶わない。(だから今度は、おれが)
後日、ひとりで海に行った。くじらの骨はどこにもなく、能天気に遊ぶ若者や子どもの声ばかりが、潮騒と混じりあってだらだらと空間を埋める。影野は波打ち際を選んでひたすらにあるいた。剥き出しの手の甲が日光に焼かれてちりつく。しろい砂浜が尽きるころ、ごろごろと岩がのさばりそのすき間にごみが打ち寄せ多足の虫が這うみじめな光景に出会うころ、影野はそこに一頭の犬の死骸を見つけた。皮は剥げて肉は腐り、羽虫にたかられた凄惨な亡骸は、それこそが恐らく、影野の見たいものだった。そんなものでなくていい。そんなうつくしいものでなくていい。影野は黙って死骸を見下ろす。肉からはみ出すぬらぬらした骨。汗が鼻の横を伝った。くちびるの端から潮と血の味がする。骨だ。影野はぽつりとつぶやいた。そんなものでなくてよかったのだ。そんなうつくしいものでなくても。『それ』を奪うには、影野には本当はもう足りていた。浚い尽くして惜しみなく与え、すべてを擲って、北の海に捨て置かれても、なお。









十三月の海は犬のブルース
影野と少林寺。
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宍戸はくちびるをへの字に曲げて、あからさまに嫌そうな顔をした。それ聞いて意味あるんすか。ないなぁ、と影野はその隣でひとりごとのようにぽつりとこぼす。じゃあ言わね。木の棒をつまむ指先に、だらりとうすあおく甘ったるいソーダが流れてくる。影野は冬にたべるアイスクリームがすきだ。その自虐的なつめたさ。噛み取っていく歯の根っこがさむい。宍戸はアイスをくわえたまま、寒そうに自分のからだを抱くように縮こまっている。そのあごから首筋にかけてのやあらかなひふが青ざめていた。冬のアイスクリームと宍戸は似ているな、と思いながら影野はまた爛れたような曇り空に目をやった。星のない冬の夜、自虐的なつめたさ。
本当は姉と半分ずつたべようかと思って買ったものだ。まん中からぱきんと割れる、うすあおい120円のふたごアイス。今日はなんだか姉のすきな映画をロードショーでやると言っていて、その時分にはどうせ手持ちぶさたに腹をすかせるとわかっていた。姉も影野とおなじく冬にたべるアイスクリームがすきで、それは姉が産まれるころ、さむいさむい冬の夜には、母がアイスクリームばかりをたべていたせいだと姉は信じている。不健康で不景気な顔をした女の店員がばたばたっとレジを打つ、その指先のパールピンクのマニキュアが剥がれかけていた。コンビニの窓は曇っている。アイスを受け取って自動じゃない扉を押し開けると、さあっと寄せる寒気に目がうるんだ。冬の夜にはなき虫でぇ、というのは、姉がときどき口ずさむ出典不明のひと節だ。まぶたに髪がはりつく。
さむいからさっさと帰ろうと思っていたのに、ふと影野は足を止めた。狭い駐輪場の片隅、錆びだらけの空き缶が雑草に埋もれかけたそんな場所に、宍戸がぽつんとうなだれている。こちらに背を向けて、わずかにからだをかしがせて、片手でうなじを押さえながら。影野はしばらくその背中を眺めた。痩せた背中では、ときどき風に吹かれた学ランが波打つ。歩み寄ってそっとその肩にてのひらを置いたとき、びくりと振り向いた宍戸の顔がどことなく引きつっていたのは気のせいではない。影野もおなじくらい驚愕していた。なにしてるの。それっぽっちの声ががさがさにかすれる。宍戸は一瞬影野の背後を伺うようにして、別に、と小声で言った。そこに他の誰かがいたのなら、宍戸はきっと快活にわらって、なんでもないっすよー、なんて、言ってのけただろう。影野は意味もなくほほえみ、かちかちにこわばった肩から手をどけた。
ちょっと待って。影野はできうる限りはやくふたごアイスの袋を破った。均等に割り、片方を差し出す。たべよう。は。座って(、と影野は車止めを指す)。たべよう。宍戸は怪訝そうに影野を見た。黙ってアイスを差し出し続けている影野にあきれ返った口調で、どうも、とようやくアイスを受け取る。その指先が氷みたいだ。影野は自分が真っ先にそこに座ってアイスを噛む。宍戸が不承不承、といったように隣に座る。ずずっと洟をすすり、手に持ったアイスを持て余したようにたべようともしない。たべなよ。水を向けてやると宍戸はおあいそ程度に端をちょっとかじった。さむいのが苦手なんだろう。黙ったままの宍戸の、痩せた膝ががたがた震えている。なにしてるの。再度訊ねた、その目がまたじわりとゆるんだ。
冬の夜にはなき虫で。影野がぼそりと言うと、宍戸はちょっと首を反らすようにした。からだを抱くように縮こまった、冬眠中の臆病な動物みたいに。やさしい彼がふと、冬の最中、先の見えない春を前に悪夢に目覚めてしまったように。おれは冬にたべるアイスがすきだよ。はぁ。宍戸は、なにがすき。唐突なその言葉に宍戸は黙ってアイスを噛み、ぼんやりと咀嚼し飲み込み、また黙る。影野がアイスをすっかりたべ終わって手持ちぶさたに木の棒を噛みはじめるころ、宍戸は口を開いた。おれは。アイスの断面を見つめながら宍戸は小声で言った。夏がすき。どうして。つらくないから。冬は、つらいの。宍戸はぱっと顔を上げ、あんた関係なくねっすか、と言った。心外だ、と、突きつけるみたいに。影野はまたほほえむ。それしか方法が、ないから。
つらい冬。さむい冬。目の奥が凍ってしまいそう。冬のアイスクリームみたいな宍戸。臆病なやさしい動物。爛れた夜にはふたりぼっちで、冬の夜にはなき虫で。もうひとつ買って帰ろう、と影野が車止めから腰を上げたのは、宍戸がふらりとどこかに行ってしまってから、しばらくあとのことだった。ごみ箱に放った棒がからんと鳴る。目がぐずぐずにゆるんで、思わず袖で押さえた。ないてるみたいでかっこわるい。かなしくもつらくも、なんともないのに。
宍戸、なんで目を隠してるの。








嘘と三秒
影野と宍戸。
強いて言うなら抜けた場所が嘘です。
動物のようだと彼はいう。
それも別にわるくはないと影野はゆっくりと首をかしげた。首筋にはまだあおく痣が残っている。言葉をあやまたずに地面をうつ雨の音がやけに遠くてやあらかい。「雨のにおいがする」そう言ったのは朝練が終わったあと、やたらと水が広がって飛び散る水道で手を洗っていたときのことで、それを隣で聞いていた染岡はあからさまにしぶい顔をした。影野はそれ以上を避けて、ずぼんの腰にはさんだハンドタオルで手を拭いながら壁山に場所を譲る。地面が蒸せるような雨のにおい。学校全部がうすいうすい水分のまくに覆われてしまったようだ。まとわう湿度の重みを嫌う。髪の毛はすぐにそれとわかるのだ。影野の檻。彼はそれを動物のようだという。
ぽってりと厚い葉を水滴がすりりと滑り落ちてゆく。こまかくも降り続く雨にいきいきと歓喜するのは植物ばかりで、吹きだまりの空気はべたついて淀むばかりだ。うんざりした顔と目。それでも素直すぎるまなざしは厭うほどのものでもない。空気の流れがほんのわずか自分に向いている、と感じた次の瞬間には彼が仏頂面をしている。机から教科書を抜き出して渡してやる、その表紙がうっすらと湿っていた。影野は眉をひそめる。彼が持っていってしまった教科書は、もういらないと思った。ビニルカヴァを買わなければ。エコなんて言葉はしない善よりする偽善より気分がわるい。そうかと影野はてのひらを広げてじっとながめた。動物のようだ。か。
そんなことがあったよ。影野は屋上でビニル傘を差しながら靴を脱ぐ。へえ。円堂が学ランをべたべたに濡らしたまま寝転がっている。注意深く雨の当たらない場所に靴を立てかけ、素足が水の這った屋上を打つ。雨と草と錆と砂のにおい。円堂はからだを起こし(てらてらに変色した学ランがくしゃりとよじれる)、伸びをして肩を回した。影野は円堂に傘を手渡す。ビニルの下の不景気な顔の、くすんだくらげのような円堂。おまえのこと動物とか見る目ねえな。円堂は傘を肩に器用にもたせて、弛緩した様子で遠くを見ている。そう。影野はサッカーができない。足もそう速くないし、伸びすぎたからだの使い方は、お世辞にもうまいとは言いがたかった。影野の素足はしろい。ゆたりと伸びやかな、動物のようなそのかたち。
影野は身軽にフェンスに取りつき、ぎしぎしとそこをきしませながら上っていく。一番上で綱渡りの道化みたいにくるりと円堂に向き直ると、影野は濡れて重くなった髪の毛を払った。首のあおい痣は鮮やかな空色をしている。はい、チーズ。ぱぱっとフラッシュが光り、それと同時にひゅんと現実は逆転する。彼の手元の濡れたデジカメ、それにピースサインを送った影野のからだは、円環状の鋼鉄の蛇になって高々と舞い上がった。誇り高き無限の蛇。吠え方を忘れた気高き四つ足のいきもの。曇天を猛然と平らげていくウロボロスを見ながら、円堂はぱきんと傘を閉じる。「くそきもちわりいやつ」
けだものだと彼はいう。牙を隠し爪を隠し、口をつぐんで檻に永らう、けだものだと、彼は。







いざ立ていくさびとよ
影野。
秋になると急速に空がたかくなるのを、影野はこのもしいと思っている。夏の暑さでだらだらと弛緩しきった風景が、しゃんとしよう、と意思をもって動きはじめるみたいな、コーヒーを飲んだばかりの受験生みたいな雰囲気がいい、と思う。夏の終わりはいろいろなものの終わりだ、と感じるのもこんなときだ。蝉が鳴かなくなり、店頭からすいかや花火が消える。なにかが終わり、そしてまた新しくはじまる季節。影野にとって秋は不思議に厳粛な季節なのだった。通学路にある生木のベンチはもやもやと日なたくさく、苔むした足元に気のはやい落ち葉がふうわりと吹きだまっている。
部活では宍戸が華奢な、というより明らかにほそすぎる二の腕をさすりながら、最近さぶくないっすか、と言うので影野はくちびるをほころばせる。気温の変化に敏感なひとは、ひとの気持ちにも敏感なのだ。小春日和には決まって狂い咲く、やさしい植物たちみたいに。軟弱だと言いながら、染岡がそのうしろあたまを張り飛ばす。染岡はまだ夏の風情をしっかりと漂わせていて、ユニフォームなんかわざわざ肩までまくり上げている。影野は困ったようにわらい、もう秋だからね、とひとりごとみたいに呟いた。染岡さん見てるとよっけさびーっすよ。宍戸が愚痴っぽく言いながら、ぐしゃぐしゃに丸めてあったジャージに腕をとおす。うるせえとまたあたまをはたいて、染岡は肩を怒らせたままグラウンドへ行ってしまった。影野の隣で宍戸は寒そうに肩をすくめて洟をすすっている。風邪を引いたのかもしれない。
いろいろなものが終わってゆく瞬間を見届けるのは、ひどくさびしくて胸がいたい。ぐたりとあたまを垂れ、枯れて腐るのを待つばかりのひまわりや、濁ったまま置かれるプールの水。秋は厳粛だ。厳粛でさびしい、葬送の季節。羽が葉脈みたいにぱりぱりに透けた蝉の死骸が、丸めた足を天に向けて横たわっている。グラウンドの隅に指先で穴を掘って埋めてやった。添える花もないので、せめてきれいに土をかけてやる。影野、と声をかけられ、手を払いながら立ち上がって振り向くと染岡が不思議そうに眉を寄せて、なにしてんだ、とひくくたずねる。なんでもないよ。正直にそう言うと、染岡はきゅっと目をほそめて、言いたいことを我慢しているみたいな顔で影野をじっとにらんだ。半袖のシャツからつき出した染岡の腕は、夏を確かに残している。弔辞を読むうつろな背中のような、それには耐えきれないと思った。もう帰ると言うと、染岡はなにも言わずに自分が先に立って歩き出す。影野は足をはやめて染岡を追い抜いた。空の向こうのほうが燃えるようにあかい。
染岡は鈍感だ。やさしいくせに気づきはしない。いつまでも咲けないつぼみのような、傷んだままだらしなく実りつづける果物のような、それはひどく息のつまるやさしさだった。そして染岡のそんなやさしさを、息がつまるなどと考えてしまう自分に影野はひどく落胆する。追い抜いた瞬間に染岡はどんな顔をしただろう。傷んだ果物ならもいで棄てられるのに、咲けないつぼみなら水をあげられるのに、どうしてそれが染岡にはしてあげられないのだろう。と思った。やさしくないのは百も承知で、でも、それでも。影野は思う。ぶれてしまったら終わってしまうのだ。いつだって、関係なしに消えてしまうものだってあるのだ。
染岡はいつもくるしいみたいな顔で影野を見ている。こわいかなしいつらい顔の染岡。その顔を見てしまうと、その無遠慮なくらいに痛々しい目を見てしまうと、それだけで影野はもうなにも言えなくなってしまう。まるで夜露に濡れた落ち葉の、踏むとしわりと沈むさびしい感触のように、染岡のまなざしはそれだけで影野の芯をしわりときしませる。なにが欲しいのかなんか言わなくてもわかってる、とでも言いたいような、親密さはおもたい沈黙にかき消されてゆくだけだというのに。それを見てみぬふりをする、染岡の視線はとめどない河に似ている。ふたりを閉じ込めて逃さない、ゆけば帰れぬ死出の河に。それに呑まれることは、たぶん自分にはできないのだと影野は知っていた。だからさびしいのだと知っていた。染岡が望むようには、どうしたって自分は生きられないのだ。そんなことはもう十分に気づいていた。染岡がこわいかなしいつらい、くるしい顔をしなくたって。
携帯がわなないた。次から次から、途切れることなくメールがやってくる。くろくつるりとした塊は、影野のてのひらの中で瀕死の蝉のようにもがき続けた。脳裡をどろりとした、倦怠に似たものが満たす。送信アドレスは全部おなじもので、次々にやってくるそのアルファベットの羅列は劇薬のタブレットだった。影野にとって、必要でないものものだった。指先がつめたくかたまる。受け取ったメールを削除しようとしたとたん、すとんと電源が落ちた。がちゃがちゃと画面上に無数のアイコンが点滅し、やがてまっくろに動かなくなる。充電の切れた携帯を手にしたまま、影野はなにもない虚空をぼんやりと見上げた。消すことさえもかなわない、鮮やかすぎる、それは、まぎれもない悪意だった。かなしいことに、それは希望にすら似ていたのだ。あまやかに絶望をまとわせたまま、そうであるようにと願わせてしまう、ほどには。






死出の河
影野。
少林寺の足は身長に比較すると大きめで、親指がすんなりと伸びたきれいな形をしている。ひらべったい貝のような爪と、海外モデルの少女のそれみたいな優雅なカーヴの土踏まず。使い込まれてがさついたかかとや親指の付け根がかすかにあかく色づいていて、水から上がったばかりのひふはなめらかにくたびれている。少林寺は派手な靴紐を指で引っかけて、白地にそらいろのラインが入ったスニーカーをぶら下げている。くるぶしがやけに出っぱった裸足の足首が、奇妙になまなましく思えて影野は目をそらした。息がつまる。ユニフォームのポケットからくしゃくしゃの靴下を出して左だけ履き、それからぶら下げていたスニーカーをぱたんと落として片足ずつ突っ掛ける。右の膝からふくらはぎにかけて広範囲に擦りむいた傷が消毒液と血でてらてらとひかっていて、それが少林寺の動作をぎこちなく重たくしていた。いたそー、と音無が棒読みみたいな口調で覗き込んでいる。
精度の高いプレイをする少林寺にしては珍しく、カットミスでえらく派手に弾かれていた。ぶち当たったのは半田でそのことに大げさなくらいにうろたえ、豪快に怪我をした少林寺をおぶってあっという間に手洗い場まで走っていってしまった。そのときにスパイクも破損して、今は交代要因でベンチに収まっている影野の隣の『負傷者席』でつまらなそうな顔をしている。影野のさらに向こうから目金が心配そうに何度も身を乗り出してくるが、少林寺はそれには気づかずに歯の部分がべろりと剥離したスパイクを所在なげにいじっていた。監督がぬっと後ろから少林寺を覗き込み、痛いか、とみじかく尋ねる。少林寺はそれには答えずに、スパイク壊れたし、とくちびるを尖らせた。そうして影野の方を向き、ね、と小声で同意を求める。影野が答えに窮していると、監督の分厚くおおきな手のひらが少林寺のあたまをあやすように撫でた。すぐになおるよ。ほんと。ほんと。よかった、と少林寺はようやくくにゃりと背中をまるめ、それと同時に目金の方から安堵のため息が聞こえた。
プレイ中のグラウンドからは半田がせわしなくベンチに視線を投げかけている。少林寺はそれに気づいて、左足をぷらぷらと揺らしながら両手を振った。半田もそれに応えるように手を振り、それとほとんど同時に松野のドロップキックで吹き飛ばされる。詰め寄る半田にジャッジスルーの改良版云々と講釈を垂れる松野を見ながら、少林寺はあはははと気楽にわらっている。怪我。影野は小声で問いかける。痛くない。痛くないですよ。少林寺はにこりとわらう。そう。先輩も監督も、気にしすぎです。そうかな。それにスパイクのが重傷ですよ。またマァマに怒られます。ふふふ、と影野はひくくわらい、半田が見てるよ、とグラウンドを指さした。
言われた通りにグラウンドに視線を向ける少林寺の、つるりと乾いた消毒液のひふにきまりわるく視線を落としながら、それでも影野も、よかった、と思った。少林寺が自分に対してぶつけてくるものに、往々にして影野はひるむ。ね、と囁かれたあのちいさなちいさな一言が、そこに潜む過剰なほどの親愛や遠慮が、会話としてならとっくに押し流されてしまった向こうから今もまだ影野の喉のあたりをじりじりさせている。少林寺は決して組織にも個人にも従順な質ではなく、それでも影野に相対するときにだけ、少林寺はその傲慢さにほとんど病的な素直さをまとってしまうのだった。いつまでも部屋になじまない拾いものの動物みたいに、聞き分けのないお仕着せの子どもみたいに、少林寺が素直さでもってぶつけてくるものはいつでも影野を居心地のわるい気分にさせる。しかもそれだけじゃなく、その病的な素直さは自らよそおう少林寺にすらちぐはぐで、いかにも慣れないししっくりとはこないのだ。いかにも親しげにわらいあったり寄り添ったりしながら、まるでお互いにお互いを、世界で一番疎んじているみたいに。どうせなら。おざなりにわらいながら影野は思う。栗松や宍戸に対してするみたいに、居丈高で傲慢でいてくれればいいのに。そうしてくれたら、こんな風にかける言葉に詰まったりはしないのに。きっと。今よりはもっと上手に、親愛だろうとなんだろうと、してあげられるのに。そうしたっていいと今だったら思うのに。
ほほを片方ずつ膨らませながら、少林寺のちいさな手のひらが片膝の汚れを擦り落としている。つくりものみたいな足が、目に見えないものをかき混ぜていた。だらだらとぐるぐると、なにもしないことをいとおしむみたいに。ひょっとしてこの子とわかり合うことは、一生を費やしてもできないことなのかもしれないと影野は思った。後ろから手を回して前髪をそっとさわると、少林寺は大げさなくらいにびくりと肩をふるわせて振り向き、そしてゆっくりとわらった。ゆっくり、ゆっくりと。密な親愛をひそやかにのぞかせて。その表情に胸の奥の方がくしゃくしゃにきしんで、影野はそうっと息を吐く。伝わることもなくて、わかり合うこともできなくて、それでも今ここにふたりはいてしまうのだから、決して嘆くべきではない。わらって受け入れ、咀嚼して呑み込む。そうするべきなのだ。一生を費やしても叶わない、つくりものみたいな夢の代わりになら。







明日は雨かもしれない
影野と少林寺。
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