ヒヨル 呼吸とす 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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松野が影野を殴った。
練習終了直後の部室はがやがやとして、それぞれにほっとしたような顔で今日の夕食がどうとか、宿題がどうとか、そんなことを話しているようなぽっかりとおだやかな時間だった。
そこに突然ひびいた重たいかわいた音と、がしゃんという甲高い音と、押し殺した悲鳴のようなものが、そのおだやかな空気をあっという間に駆逐していく。
殴られてロッカーにひどくぶつかった影野はそこにずるりと崩れ落ちて、まだその影野を蹴りつけるだか踏みつけるだかでスパイクの足を振り上げた松野を後ろから羽交い絞めにしたのは、たまたま一番近くにいた宍戸だった。先輩どうしたんっすか何やってるんすかと早口で宍戸が言い募るが、その腕を振り払おうと松野は顔をまっかに染めて暴れている。
染岡はそのふたりの間に体を割り込ませた。やめろバカ何やってんだよと、宍戸とふたりがかりで暴れまわる松野をなんとかおさえこむ。影野はロッカーに頭をぶつけたか、うずくまったまま動けないでいる。少林寺がちいさなからだでそこに覆いかぶさり、栗松が呼びに行った円堂と風丸が駆けつけた。
どうしたんだという円堂の問いに答えられるのはだれひとりおらず、それでも松野が口ぎたなく影野をののしるものだから、染岡はああとなんとなくあることに思い至った。
紅白戦の最中、強引にディフェンスを突破してきた松野をからだで止めようとした影野が、確かにそのとき一瞬躊躇したのだった。松野の帽子が横にずれて、視界を半分ほど覆っていた。止めようとしたら、止められていた。ためらってしまった影野はあっさりと松野に抜かれ、影野と、その松野のボールを止められなかった円堂がまとめて罰走になった。
っざけんなよバカゲノ!てめぇいい加減にしろよ手ぇ抜いてんじゃねぇぞ殺すぞ!松野はその小柄なからだのどこにそんな力があるのかと思えるほどにもがいて、羽交い絞めにする宍戸のわき腹や足や、前に立ちふさがった染岡を何度も何度もぶったり蹴ったりした。スパイクを履いた蹴りがやたらいたくて、そればかり染岡は考えていた。
円堂と風丸が同じように横から松野をなだめ、壁山がおおきなからだをちいさくして影野に手を伸ばす。助け起こされた影野は打たれた頬をおさえて、やけにしずかに激昂する松野をながめていた。
ああ、ごめんって言う。影野がうすいくちびるをかすか開いたので、染岡がそう想像すると、影野がそれを口に出す前に、鈍いおおきな音がした。円堂を押しのけた半田が、後ろから拳骨で松野の頭を思い切り打ったのだった。
あやまんなよ影野。お前わるくねーから。松野がまっかに充血した目でゆるゆると振り返る。てめーに何がわかんだこの野郎と、今度は半田に食いついていく。半田も負けじといつまでグチグチ言ってんだてめーが悪かったんだろと声をはり上げる。おだやかだった空気はあとかたもなくかき消えて、触れたら切れそうなひびわれた空気だけが狭い部室に充満していた。もうやめてくださいよマジでっと宍戸が泣き言を言った。すねから下の靴下がスパイクの歯に引っかけられてぼろぼろになっている。
ついに振りほどかれた松野の腕を、しかし今度は染岡がつかんだ。また後ろからその腕を宍戸がすくい、それでも結局蹴りが一発半田に入った。
そのとき、マネージャーに囲まれた監督ががらりと部室の扉を開けた。どうしたんだと呼びかける声に答えることができるのはやはり誰もいなくて、おそらく監督に注がれた視線は、自分の途方にくれたそれだけだったのだろうなと染岡は思った。普通なら天の助けとでも思えるはずの監督の姿は、その場では奇妙な闖入者でしかなく、ひびわれた空気をよけいにとげとげととがらせる程度の役にしか立たなかった。
ひどくうんざりして、染岡は半田を見た。ユニフォームの腰のあたりが蹴りつけられて汚れている。予想に反して半田はにっとわらい、その顔はあまりにもちぐはぐだったくせに、この空気にはいちばんしっくりきたような気がした。影野の頬がすでに腫れはじめて、その足元には少林寺がぴったりとからだを寄せている。暴れつかれて荒い息をする松野のうしろでは、宍戸がその三倍くらいつかれた顔をしていた。松野のまっかな目からはいつの間にか涙がこぼれていて、頬をしとどにぬらしている。
円堂が困ったように視線をただよわせた。だけれどそれにもだれひとり答えなかった。ひびわれた空気が徐々にふさがりはじめていて、とんだ茶番だと染岡はため息をついた。わらうことさえできなかったのに、それを見た半田の目から涙がひとすじ流れた。
たとえばお情けの一点でも喉から手が出るほどほしい。監督を押しのけて出て行く半田の背中を染岡は黙認した。あの手で松野を殴ったのだ。その煩悶にはいたいほど心当たりがあったけれど、それでも振り向いて影野の頬に指を伸ばした。そこはあつくて、それでも顔色がおどろくほどあおざめていた。あのとき息を止めていればよかった。影野はないてすらいない。
あの手で松野を殴ったのだ。外は夜になりはじめているのに、やけに煌々とした部室を、染岡もはやく出て行きたかった。だってもう済んだことだろう。松野はうつろな目をして影野を見ている。半田が決めたシュートは、染岡の記憶では一本もない。





呼吸とす
染岡と半田。
半田を口に出さずに理解する染岡と、松野から影野への屈折した感情。
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