シャングリラは淡

どうっと雨が屋根を打つ音が、濡れた空気をのろりと揺らす。うすいトタンは滝のような豪雨の足音を遮るどころかなん倍にも響かせ、びいん、とときどき錆びたロッカーを不穏に震動させた。部室の中は溺れそうなほど湿度がたかく、ねたりと絡まりつくような不快な湿気と熱気をかき分けるふたつ足の硬骨魚は、それが腹立たしくて仕方がないみたいにうろうろと落ちつかない。円堂は足を止めて、スニーカーのつま先を入り口にかるく触れさせる。一緒にいるのが木野でなかったら、間違いなくそこを全力で蹴りつけてまるくへこませていただろう。なんだかんだと理由をつけて木野の雑務が終わるのを待っていたら、雨に降られてふたりして足止めをくらってしまった。木野は奥のベンチに黙って腰かけて、することもないからと練習用のボールの縫い目をひとつずつチェックしている。ごうっと唸るみたいにまた雨足が強まった。週末に梅雨明けを控えた（らしい）梅雨前線は、まるで最期の抵抗みたいに狂った豪雨を垂れ流している。きかん気のくそがきの癇癪。
扉をほそく開けるとたちまちこまかい水滴がしぶきこんできて、カッターにしみつくそれらに円堂は辟易する。目と鼻の先の校舎さえ、分厚いカーテンのように降りしきる雨に遮られてうかがうこともできない。ビニル傘なんか持つだけ無駄だ。部室を振り返ると木野はちょうどボールのチェックを終わらせたところで、不機嫌な視線の円堂に臆せずにこりとほほえみかける。木野のしろい顔は濡れそぼる部室にひときわ清潔で、円堂はつられるように眉間から力を抜いた。扉をそっと閉める。止まないね。しろい膝をきちんと揃えて、木野はなんだかお手本みたいな調子で言った。ああと応えてから、円堂はその返事はばかくさかったかなと思ってかるくあたまを振る。もうすこし待てる？あやすような口調に円堂はくちびるを曲げた。待てるよ。その言葉に木野はふふっとわらって、すこしだけ腰かける位置をずらした。空けた場所をてのひらで撫でる。すわる？円堂は無言でどかりと腰を下ろした。耳の位置が下がると、まるで音だけがらせんを描いて降ってくるみたいに聞こえる。
どおんと遠くでおもたくとどろいた音に、円堂は顔をあげた。雷だ。木野はその言葉にようやくわずか首をめぐらせて、そうだね、としずかにささやくように答える。夢見るような目をして。あき？円堂は木野の顔を覗きこむ。どうしたの。逆に問われて円堂はとまどい、なんとなく収まりがつかないままに木野の膝に倒れこんだ。仰向けになると木野がおおきな目をまたたいて円堂をじっと見下ろしていて、その濡れたまるい瞳が月のようだった。指を伸ばして木野の前髪に触れる。湿気にわずか絡みつくおもたさ。木野はやわらかなまつ毛でまばたきをして、伸ばされた円堂の指に自分のそれをそっと絡めた。喉の奥を締め上げられるような苦しさに、円堂は知らず知らずのうちにため息をこぼす。円堂の奥からほとほとと、ほとほととわき出すきよらかなものが、円堂が普段から抱えている光の差さない深い深い谷を、ゆっくりと、しずかに、流れ出す。あき。円堂の言葉に木野はうなづく。木野のまつ毛が、円堂のまぶたをゆっくりとなぞった。
わたしたち。円堂の首に腕を投げ出して木野は言う。さびしくってたまらないみたい。円堂はちょっとわらって、わらおうとして、それは叶わなかった。いつの間にか雨は止み、らせんを描いて降ってくるのはさざ波のような静寂ばかりになった。あき。くちびるを開いたとたん、部室がびりびりと震える。空のとおくとおくがまだ唸っている。それでもいい。円堂はうめく。それでもいい。もうたくさんだ。（しあわせは）（ここの他にない）溺れて、沈んで、腐り果てるだけの堕落の谷で、けだものはふたつ足でむつみあい、幸福を愚かしく謳う。木野がいる限り円堂にはすべてがあって、内に猛るくろい炎も福音のごとく甘やかに脳を焦がす。木野の中にひそむ凍てついた寂漠も融かすほど。もうなにもこわくない。落雷がふたりを包むすべてのものを揺らして照らして、おののかせるのに、ふたりの周りばかりが、永遠の理想郷のようにうつくしく思えた。そうであればと願った。









シャングリラは淡
円堂と木野。