ヒヨル かげののはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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松野がじっとこちらを見ていたことは知っている。あの長く長く恐ろしく退屈な入院生活の、だらだらといつまでも陽が沈まないようなけだるい曇りの、朝だったか、昼だったか、ともかくなにもない一日のうちの、ほんの数分。バスチーユの襲撃とて、日記にすら書かれなかったのだ。あの頃は毎日がなにもない一日だった。たとえどこか遠くの知らない場所で仲間たちが傷ついていようが、見ることすらできない身には、どうでもいいことだ。松野は誰よりこれらのなにもない一日に倦みきっていた。常になにかを探してなにかを求めている松野には、こんなまっ平らな日々は地獄よりも辛いのだろうことは、誰の目にも明らかだった。影野はというと毎日がなにもないだけであって、言わばそれだけの日々だったことは確かである。寝て暮らした毎日に現実感はみるみる薄まり、ただそれさえも、それだけの日々、だった。寝て、起きて、めしを食い、下らない話をして、治らない傷を抱え、夢もない眠りの中に、ただ戻るだけの、日々。
かたつむりが這うほどのろくさと怪我が癒えてからは、お粗末な野心家に唆されて雁首揃えて少しばかり馬鹿をやり、円堂にこっぴどくぶちのめされてまた傷をこさえ、それが治るころには長く長く恐ろしく退屈な入院生活に入る前の、程ほどに退屈な日常に戻った。松野は前々から気に入らないのうるさいのとぐちぐち評していた彼女と別れて別の女とひっつき、その女もまぁ完璧とは言いがたいようで日々うだうだと文句を垂れている。でも好きなんだろ、と半田なんかが混ぜっ返すと心底嫌な顔をするくせに、校門で健気に待っているのを見つけるとまんざらでもなさそうに手を振ったりするのが、まぁ、松野らしい。つまるところ別段退屈をしている様子もする暇もなさそうであったが、それでも、退屈だ退屈だと言っては手持ちぶさたに小突いたり罵倒したりしに来るのには影野は辟易していた。そんなところもすっかり元の通りに戻っている。もう少しくらい病院に寝せておいてもよさそうなものだ、などのぼやきを聞いた半田は笑っていた。
それで、と切り出す松野は常のように唐突だったので、どんな話の流れだったかは覚えていない。生臭いセックスの話だったのかもしれない。嫌いな話題ではないが知人のそれなど気が滅入るだけだ。そんな風になんとも言えず不愉快にかつ無神経に松野は話すので、影野もあまり言葉を選ばない。おまえっていつ寝てるの、と聞かれたそのときも、なにが、と軽く突き返した。松野が舌打ちを挟んでおめー昼寝とかしないだろ、と言うので、影野も軽く頭を振って同意を示す。でも普通に夜は寝るよ。どっちかと言うとよく寝てる方だと思う。松野はそれを聞いてだからそんなになげーのかハハハと軽く笑った。機嫌は悪くないらしい。それがどうかした。いやなんつーか。松野は珍しく言い淀み、結局なにも言わずに口を閉ざした。影野はしばらくその沈黙をゆったりと味わった。通学路は塗り重ねたようなオレンジに染まっている。長く伸びた影が、なにも言わずに静かに病んでいくようでもあった。
思えば、あの瞬間の静かな沈黙は、あの長く長く恐ろしく退屈な日々に似ていた。朝だろうが、昼だろうが、曇りだろうが雨だろうが、倦むに任せる無為な時間。それは例えば、バスチーユの襲撃を孕んでいても、なにもない、と片付けてしまう。松野はなんとなく寂しそうに見える、と影野は思う。もっとも、それは絶対に言葉には出さないことだ。出せないことだ。だからこそ、松野がそれを切り出してくるのだと、影野は気づいている。羊をいくら数えても、眠りは訪れない。羊と眠りは、似ていただけだ。同じことだと思う。ただ似ていただけだ。だから、代わりにしてしまおうとする。そんなことでは眠れない。松野だってそれをわかっている。あのときの松野の目は羨望であったようにも、飢餓であったようにも、あるいは全くうつろであったようにも影野には見えていた。そんなことでは眠れないのだ。だからもうどうせならいつもみたいにヘラヘラ笑っていてくれた方がましだと、影野は思っている。







フェスティーナ・レンテとエルヴィンは
影野と松野
ずいぶん前にお約束した仁マ。遅くなりました。
フェスティーナ・レンテ=「急がば回れ」
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人間が脱皮を手伝った爬虫類は、かなりの高確率で不具あるいはそれに準ずる障害を負う、という内容の文章を嘘か本当か定かではない壺の場所で目にしてから、爬虫類は彼にとってとても親しいものになった。自然に任せるのが一番正しいのだとは、しかし水溜まり程度に浅い人生しか持っていない彼には根拠も論拠もあまりに希薄で、対象が限定されてしまう事象に比較を施すときには八割の人間が賛成するであろう明白な正解を以て当たれと、いう嘘っぱちな金言にだらしなく流され(たわけではなかったが同じことだ)、結局は誰がなんと言おうとそれが正しいのだろうとふてくされたように思った。中には例外の個体もいるかもしれないのに。手を貸してもらえることを望んでいるかもしれないのに。要するにどうしようもないことはどうしようもないまま放っておく以外に方法はないということだろう。なにも知らないことが幸せだと言う人はたくさんいるけれど、彼にとってなにも知らないことは害悪以外の何物でもなかった。
スコラ哲学が席巻した中性ヨーロッパの自然観を一蹴したのは、ジャン=ジャック・ルソーの「自然に還れ」という一言だった。もちろん影野はそんなことを考えていたわけではなかったが、自然という概念はなにを指すのか、と目金に問いかけたときに返ってきた言葉がルソーだったので、今でもそれを覚えている。ルソーが自然という言葉で表現したかったのは人間個々人の自立ですよ。目金はいつもの有無を言わせない口調で続けた。ルソーは人間を自由意思を持つ存在と定義するところから始めました。各個人が意思により自立し、それを契約という共通認識、ああこれは自己の欲求を満たすための手段なんですけれど、そのために人間が互いに協力しあうものが社会であるべきだと。影野くんは社会契約論は読みましたか?と訊かれて首を振った。いずれ読まなければ、と思う。知らないことは害悪だ。目金の話題はその後二転三転しながら延々と続き、しかし影野はそのほとんどを聞き流していた。
人間は自然に戻らなければならないという。自然とは自由意思を指す。不具を恐れないものも中にはいるかもしれない。それが彼の自由意思ならば。側頭部にぶつかったボールは、はちはちに詰められた空気の感触を脳にダイレクトに伝えた。ボサッとしてんなよ。円堂が敵意も露に影野を睨む。悪い。影野は形だけ詫びると、ボールのぶつかったところを軽く手で払った。向こうで松野がニヤニヤしている。痛くも痒くもない、というのはまさにこういう心情なのだろうと、影野はボールを拾い上げて投げ返す。自由意思の果てに契約をもって繋がろうとする人間同士の営みを社会とする。その動機が例えば、ただひとりの欲求から走り出したものだとしても、どんな望みが契約を選ばせたとしても、そこに集ってしまえば個は埋没する。そういうことだろうか。髪の毛の奥でまばたきをする。八割の人間が諸手を挙げ、ルールに均されて、あとはマジョリティが塗りつぶす柔突起の群れを、虚しい、と思うことは間違っているのだろうか。
夕焼けの河川敷ではよく豪炎寺がひとりでボールを蹴っている。孤独なやつだ、と影野は思う。端から見た円堂は、豪炎寺のことをあからさまに疎んじているばかりでなく、まともに関わろうとすらしない。影野を疎んじるのと同じくらいに。円堂は他人に対してはいつでも極めて残酷になれる。自由意思のもとに。一方でそれは豪炎寺がサッカー部に未だに馴染めていないことに起因しているのかもしれない、とも思った。豪炎寺がサッカー部に溶け込むきっかけを、たとえ円堂がことごとく潰していたとしても。豪炎寺が高く飛び上がる。夕陽に負けない炎の色。孤独には勝てない。人間とはそういう生き物だ。豪炎寺が不具を恐れないなら、円堂は今度はどんな言葉で彼を蔑むだろう、と思った。ボールはまっすぐにゴールに突き刺さり、豪炎寺はたったひとりで着地する。周りを見回しているのは、豪炎寺にもまた望むものがあるかもしれないからだろうか。孤独には勝てない。それでも豪炎寺は毎日部活に来る。たったひとりで。
孤独には勝てないが慣れることはできる。それでも望んでしまうことが嫌で、だからここにいる。僅かな希望と契約して、影野は緩やかに個を捨てた。明日にもその次にも、少なくとも居場所だけはある。還る場所はある。冒険する爬虫類にはなれなかった。八割の中に、いつでも入っていたかった。言うなれば、もともとそうだったのだ。欠けたまま迎えてしまったことを、虚しいと、それでもまだ繰り返している。舐めるような陽がまぶたをちりつかせ、川面はぎらぎらと暴力的だった。彼らの望みを知りたいと思った。それが彼らの自由意思だというなら。望んでしまうことは嫌だった。それは害悪であった。溶け込むまいとしていたのは自分なのだと気づいたその日が、彼の昇天であった。










彼の昇天
影野。
ときどき彼がそんな風にいたたまれないような顔をするのが影野には悲しかった。少林寺のことだ。少林寺がときどき、陽の当たらない部室の裏手にうずくまって、小さな手で自分のからだをぎゅっと抱いていることを影野は知っていた。いつ頃からだろうか。影野のあたまの中の少林寺は耐えるばかりの無口な少年であった。ずいぶん前からなのかもしれない、と思う。無言でうずくまる少林寺の背中。豊かな髪の毛とそこから覗く華奢な肩。小さな手。それらはいつもかすかにわなないていた。どうしても、我慢ならない、なにか、に、(あるいは想像を絶する恐怖にも似たものに、)相対する切なさを黙って吐き出しているような、健気な背中は影野の憐憫と恍惚を誘った。薄暗く陰鬱によどむその場所でしか、弱くなることはできなかったのだろう。いつになく奇妙に儚い少林寺の背中は影野に、これもまた奇妙に儚い陶酔を何度でも何度でももたらした。
汚れたボールをつま先で持ち上げて骨ばった膝に器用に乗せる宍戸の、その隣で少林寺は無言で黙々とリフティングをしている。薄く引き伸ばされたみたいな曇り空の、まぶたの奥がちりつく明るさは毒だ、と思う。影野にとっては。曇りのすきな人間は怠け者だと姉は言う。確かに姉は怠け者だった。そして影野も。並んだ7と8。ちぐはぐの背中を眺めていると、殺気のようなものが眉間をちりつかせて影野はかくんと首を前に倒した。後頭部をボールがゆき過ぎる気配がする。巻き上げられた髪の毛が落ち着く頃には、円堂は既に背中を向けていた。ボールが地面をこする音。円堂。短く呼ぶと円堂はそれを無視して宍戸と少林寺を呼んだ。影野は黙ってボールを拾いに行く。薄弱な男だ、と思った。誰がとは言わない。
狭いグラウンドの小さなボールを奪い合う一握りのチームであったとしても、勝ちをもぎ取る場所である限り、お決まりのように傷ついて蹴落とされてはまた誰かの足を引く。牙を剥く有象無象は力を惜しまず、それに揉み潰されては消えていく野心もあった。影野は短く息をする。少林寺がまっすぐにこちらに走ってくる。ボールを挟んで意識が糸のように繋がるその瞬間、影野の恍惚は絶頂を迎える。ともすると腕を広げて少林寺を抱き止めてしまいたくなるほどに。しかし少林寺はいつも影野を縫うようにすり抜け、凛とはりつめた気配だけを残して駆け去ってしまう。影野は振り向く。可憐な背中。ああ、と息を吐く。今日も少林寺はあそこに行くに違いないと思った。心臓が揺れる。今日のこの瞬間に確かに傷ついていたに違いない少林寺のことを思った。とろけるほどの恍惚。
それがただただ無感動に続く日々の中に安らかに埋没していくだけの罪悪感だったとしても、それを重石のようにぶら下げておくことで惜しむ振りをすることができた。喉の奥で幼気は煮えて、得体のしれないばけものが牙を剥く。もう何度もそんなことは経験していたはずだった。あんな薄暗い場所で、ひとりきりで。あんなに小さな手をして。まるで世界中に嫉まれたみたいに。影野はそっと一歩踏み出す。うずくまる少林寺の、わななく肩が近づいてくる。薄弱な自分たちだ。どこまで行っても。影野は手を伸ばした。後ろから少林寺のほほに触れる。すべらかに乾いたそこはただ凍るように冷たかった。そんなに悲しい顔をして。影野は膝を折る。小さなからだを包み込む。少林寺が喘ぐように息をした。影野は陶酔する。恍惚は絶頂になる。
それがただ無感動に埋没していくだけの罪悪感ならば、それだけでもよかった。ただ悲しいだけならば。ただ苦しいだけならば。こんなところで孤独に耐えたりしなかった。憤怒が焦がして奪ったもの。いとおしいもの。睦み合い舐め合うけだものの、その夜は、傷口ばかりが冴え冴えと深紅。








拝啓天国様
影野と少林寺。
部室に備え付けてある手洗い場の、かどがひび割れて欠けたくすんだ鏡で目を見ていたら背中で扉が開いた。鏡越しにぎょっとした顔の円堂が見える。影野は重たい前髪を押さえつける手の奥にわずか倦怠を感じて、だが目当てのものが見つからないので辛抱強くその姿勢を保った。円堂は目を反らし、スパイクの耳障りな足音が続く。ばたんばたんと背後でロッカーがうるさい。力任せにアルミの扉を閉める音と、鈍い音が数回。誰のロッカーを蹴りつけたやら、自分のでないならそれでいいけれどと影野はあいまいなことを考える。円堂はいつでもなにかに腹を立てている。八つ当たりはそのうちこちらにも飛んでくるだろう、と思った。かがめた膝と腰がだるい。つるりとしたしろい陶器の手洗いの、蛇口の脇で鮮やかなあおい石鹸が半ば乾いて固まり、下の方はゆるんで不健康な色に流れ出している。そのあおい筋を目でなぞった。やっぱりなにかある。
一際おおきな音と不穏な振動に視線を上げて鏡越しに後ろを覗くと、円堂の拳がロッカーの扉にきれいにめり込んでいるのが見えた。部室の奥の、誰も使ってない上に錆びついて扉が開かなくなっていたやつだ。アルミの扉は無惨にひしゃげ、奥へ向けて吸い込まれている。エネルギーの余波が円堂の周りで火花を散らし、鉄臭いいがらっぽい空気が部室を満たした。影野はそっと息を吐く。こういうとき、たとえばやんわりと円堂をいさめていたわる壁山も木野も、逆上して怒り返す染岡も半田も、無責任に煽る松野も怯えた顔で硬直する栗松も、ここにはいない。自分はどうするべきなのだろうと影野は考え、どういう役割が残っているだろうと次に考えた。円堂がロッカーから拳を引き抜く。むだ遣いは。結局口から出た言葉はそんなものだった。よしなよ。円堂は舌打ちをして、蝶番が外れて倒れかかるひしゃげた扉をロッカーの奥へ蹴り返した。円堂のすることと影野の現実とは、いつもだいたい一ミリくらいずれてうまく意識になじまない。
いいのかよ。円堂は忌々しげに言ってベンチにどすんと腰かける。なにが。目。隠してんじゃねえの。あーと影野は宙を見て少し考え、別に、と返す。そう思われていることは意外な気がした。うぜえ髪。バンダナから飛び出した房のような前髪をねじりながら円堂は言う。意味ねえなら切れば。邪魔だろ。影野はちょっと戸惑う。そんなことは考えたこともなかった。なんかあったのか。スパイクを脱ぎ靴下も脱ぎ、足の裏を親指でぐにぐに揉みながら円堂はいかにも興味なさそうに問いかける。ゴミが入った。下まぶたを指で下げながら影野は答える。白目部分がところどころ充血している。まぶたの内側はうっすらと濡れてあかい。からだの内側の肉はどうしてこうもやたら生々しいのか、と思った。転んで膝を擦りむいた目金を助け起こしたとき、傷口から覗いたあの鮮烈な色。そんな前髪でもゴミとか入るんだな。呟く円堂の口の中もこんな色なんだろうかと思った。
影野はまばたきをする。たぶんこの辺のはずだと、忙しなく目を動かしたりまぶたをめくったりしてみる。なんか理由があるのか。円堂は頬杖をついて、感情の読み取れない顔で影野の背中を見ていた。その髪。理由。影野はその言葉を口に出してみる。目を動かしながら。いや、ない。あったような気がするけど、もう忘れた。じゃあなんで隠しとくんだ。円堂の目が鏡の向こうでうつろな穴みたいに開いている。ぽっかりと静かなふたつのブラックホール。必要がないからじゃないかな。鏡の中で瞳孔はふらふらと揺れる。それを追う影野の指先。その言葉に円堂は眉をひそめた。不機嫌な顔だ、と思った。なんで。影野はほほえむ。多くはいらない。少しでいいんだ。円堂は考えるように首をひねり、それは、と言って言葉を切った。続けないでほしい、と影野は思う。それ以上を問われてしまったら。
円堂は結局その先を口には出さず、おれにもいつかサッカーが必要じゃなくなる日が来るかな、と言った。その日が来ることを待ち焦がれ、そのくせそんな日が来ることを一ミリたりとも信じてない口調で。きっと来るよ。影野はしきりにまばたきをする。その日が来たら、捨てればいいだけだ。簡単に言うよな。円堂の言葉はいつも鋭くとがっている。円堂はいつでも腹を立てている。円堂は。影野は思った。思うのと同時に口に出していた。本当はなにも信じてないんじゃないか。言うなり背中に鈍い痛みが走った。スパイクを投げつけられたらしい。あ。影野は声をあげる。見つけた。目尻から飛び出したそれをつまんで引く。引きずり出された髪の毛は長く、影野がそれを引くたびに内側の肉がさわさわとこすれた。スパイクを拾いに来た円堂がゲッとうめく。全部を目から引き出して、押さえていた前髪から手を離す。どさりと落ちる重み。必要でなくなってしまったもの。
影野は湿った一本の髪の毛をつまんだまま振り向く。ベンチに戻って靴下を履き直している円堂が、何故か警戒したような顔で影野を見た。必要なければ、捨てればいいだけだ。言いながら髪の毛をつまんだ指先を開く。落ちていく髪の毛。万年ベンチの影野。円堂がもしも、本当はなにも信じていないのだとしたら、だったらおれと一緒だな、と、言おうとしたことは黙っておこうと思った。おなじ人間。きっちり一ミリの齟齬をもって。円堂の目はブラックホールみたいだった。大切なものは、ふたりとも、ちゃんと奥へと隠してある。捨てていっても恨むなよ。円堂はちらりと歯を見せる。もちろんだ。影野は頷いた。そんなものまで持っていっては、きっと重くて仕方がない。フットボールフロンティアの決勝戦は、はや三日後に迫っている。影野は鞄を肩にかけた。さっき円堂笑ったな、と思ったが、それも口には出さずにおいた。









ハッピーソングの穴
影野と円堂。
音がする、と思った。果てしないつよい音だ。遠くをじっと見ていた。とてもまぶしい日だった。すんだ空は眼球と口の中をあおくした。金魚が溺れてもがいていた。音がしていた。果てしないつよいうつくしい音だ。そんなような気がしていた。
壟であったのだ。と思う。
ことばというものにどうしてもなじまれなかった。ずっとだ。からだのまわりをらせんにめぐるアストラルベルトの浮遊虫。今よりずっと幼かったころには、木だの草だの石だの川だのばかりに興味を向けていた。ことばのないもののことばを探していた。自分とおなじなのだろうと、嘲笑うために。目は早くになくした。必要がなかったからだ。ひそやかに手放した夜にはそれでも限りのない喪失が脊椎を燃やして、焼かれたそれが痛んでなかなか寝つかれなかった。代わりに携えてきたものはすこしの挫折に傷ついて、いらいらと揺れる重みに広がる苦味を諦めと呑んだ。仕方のないことだったと思っている。今も。
あの夜にはもうひとつを手放した。つめたいしこりが南極で、だったらそれはエリュドラドだったのだと思う。からだの中が二億年も渦まいて、目や鼻から海が溢れた。苦しかったのかと聞かれれば、どうだろう。(などと考えられる程度には、むやみなだけの逃避行だった。だったら逃げたかったのかと聞かれれば、どうだろう、と言わざるを得ない。)残ったものはほんの少しだった。かき集めて手足や指や心臓にした。どうしても余ってしまったものは、仕方なくそのままにした。憐れなものがよかった。たかがひとつをなくしただけで、この有り様だ、と。みすぼらしくみじめでせつない、憐れなものがよかった。言葉をなくすほど。シャガールみたいな星がばらばらした空だった。星がぶつかって砕けてまた星になった。ごちゃごちゃでばらばらでずたずたでぼろぼろだった。言葉はそこで手に入れた。今思えば。
「それも幸福だったよ。きっとそうだった」
ささくれた爪を無言で丸めた指で、そうっとちいさなてのひらに触れる。つくりもののような華奢な指。彼の背中は優雅で、そこにまとうひやりとした空気の底をけだものの香が這う。喉を限りなくこみあげるものがふさいだ。泉に溺れる七色の魚。エリュドラド。白磁の牙の象。海で死ぬ気高き佛たち。彼は楽園だった。ただひとりで。呼吸は肺を歓喜にわななかせる。彼はこちらを見ない。彼は楽園だった。彼のためにありとあらゆるものを擲つもの。彼のために。彼の楽園のために。そうありたかった。そのために棄てたのだ。そのために。りんりんと空気を静かに裂いて彼はほほえむ。彼がそうでなければ、誰が幸福など。沈黙は三秒を踏んで次の足は彼のまばたきだった。彼はそのてのひらを持ち上げて、やさしく耳を覆うようにした。
音がする、と思った。果てしないつよい音だ。彼をじっと見ていた。とてもまぶしい目だった。すんだ空はふたりの骨と血管の空洞の中をあおくした。涙に溺れてしんでしまいたかった。音がしていた。果てしないつよいうつくしい音だ。不意にこみあげるものに喉をつまらせ、影野はまばたきをする。聞こえる。幸福だ。きこえる。アストラルベルトの浮遊虫。きこえる。脳に焼きつくうつくしくのびやかではかなくてきよらかなもの。きこえる。ああもうしんでしまってもいい。きこえる。楽園の海の底に眠る気高き佛。きこえる。沈黙の果てのけだものの咆哮。きこえる。ああもうしんでしまってもいい!きみのために棄てたのだから!きこえる。きこえる。きこえる。(きみはおれの光だ)(許してよ、)(、もう二度としないから)
壟であったのだ。それより前には。









静脈セヴン
詩歌に巧みに糸竹に妙なるは幽玄の道
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