ヒヨル いちねんせいのはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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つま先の冷たさを覚えている。あのときの感覚は、ただ沈んでいくだけの無抵抗な自分だった。その次には、もう浮かべないと泣きじゃくる無力な自分だった。自分の周りに舞い上がった湖底の泥が、ありとあらゆるものから自分を隠してくれることを祈っていた、無抵抗で無力で、無意味な自分だった。たったひとりで空を帰りながら、何度も何度も、消えたいと思った自分だった。つま先の冷たさを覚えている。ようやく楽になれたのだと、ねじ切れた心臓が叫んだのも覚えている。ずっと楽になりたかったのに、いざその瞬間が来てしまうと、怖くて、恐くて、なにもできない自分だった。このまま消えてしまいたい自分だった。なんの役にも立たない、ひとりぼっちの自分だった。
みんな優しかった。優しくて、強くて、まるで空を飛ぶかのように、次々と勝利をもぎ取っていくような、そんなひとたちだった。疑問に思ったことさえもなかった。彼らの傍にいるから、だと、思っていた。仲間だから。共に戦っているから。憧れているから。あんな風になりたいと努力しているから、だから空飛ぶ彼らの姿がよく見えるのだと。だからあんなにはっきりと、まるで天使のように、鳥のように、優雅に華麗に空を舞う彼らの姿を、目にすることができるのだと。何のことはない。なにもおかしなことはない。よく見えるはずだ。自分だけは地面を這っていたのだから。翼は、あのときには既にもがれていたのだろうか。逃げ出した罰だったのだろうか。それより、もっと前だろうか。最初から、翼なんてなかったのだろうか。最初からあのひとたちと同じ場所には行けなかったのかもしれない。最初から、地を這うことしかできなかったのかもしれない。空が飛べないから、翼がないから、誰の役に立てなかったから、だから。だから。だから。
皮肉な話だ。空も飛べない自分が、たったひとりで空を帰る。みんな優しかった。空を飛ぶかのように、次々と勝利をもぎ取っていくひとたち。だから、忘れられたいと思った。ひとりぼっちで。沈んで沈んで沈んでいった湖底の泥が自分を隠してくれるように。飛べもしない自分には、それがお似合いだ。飛べもしない自分には。地を這うことしか、空飛ぶ彼らを見上げることしかできない自分には。帰ってしまったら、また誰かが自分の名前を呼ぶ。そうして、自分をたったひとり、地面に置き去りにする。つま先の感覚はとうにない。そこで泣きじゃくる無抵抗で無力で無意味で、無価値な、自分を、置き去りにする。どれだけ自分を抱き締めてもどこまでも遠いまま、刻一刻と日本は近づいてくる。こわい、と思った。なにが。なにもかもが。可能ならばあの日に戻りたいと思った。初めてあのサッカー部の、掘っ立て小屋のような部室の前に立った、あの日に。そしたら、気づかなくて済んだ。痛い思いだって。
つま先の冷たさを思い出す。その冷たさはそのまま痩せた指になる。やってみたかったから。あの日の自分に語りかける声。一緒にやろうよ、サッカー。冷たい指。背中を押す、痩せた、冷たい指。
喉の奥で呻いて、顔を上げた。いつの間にか眠っていたらしい。どしたの。至近距離で覗き込まれて、栗松はびくりと肩を振るわせた。くしゃくしゃの赤毛に赤鼻、薄いくちびる。あ、え?おいおい大丈夫かよ。もしかして酔った?その言葉に、慌てて栗松は首を振る。今日は練習試合の日だ。キャプテン!キャラバンの扉から後輩が首を突き出して、自分を呼んでいる。あーうん、ごめん。ちょっとぼーっとして。栗松はもたもたと鞄を抱え、席を立つ。栗松。その声に振り向くと、宍戸が指の背で頬をそっと撫でてきた。え、なに?ん。ごめんね、って。はぁ。あのときもあのときも、傍にいてあげられなくて。栗松はまばたきをする。うん。うん?ああ大丈夫なら、いい。いこ。そう言って宍戸はそっと栗松の背中を押した。
日本に戻ってきたとき、消えたくて消えたくて堪らなかったとき、痩せた冷たい指でそれに連なる手のひらで腕で、宍戸は自分をしっかり抱き締めた。おかえりと言った。もうどこにも行かないでと泣いた。空は飛べない。翼もない。無抵抗で無力で無意味で無価値で、だけど、少なくともひとりではなかった。宍戸がいてくれた。だから、もうなにもこわがらなくていいのだと思った。傷つくことだって、痛い思いだって、翼なんてなくたって、もうなにもこわくない。なのに、今さら謝ったりするのだ。間の抜けた彼は。









風のとらえかた
宍戸と栗松。8月5日に寄せて。
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遠くに行ってしまったような気がしてそれなのに払い戻される小銭がばらばらに帰ってくる程度の虚しさが感情の薄っぺらい場所をぬるぬると抉ったので寂しいよと呟いたらおまえは丸い目をますます丸くしておれを見る。ので。寂しいの?なんで?そんなことを言ったりもするので実はおれはおまえに期待なんかしてないんじゃないか、などと一献。遠くに行ってしまったようなおまえだったような今は。戻ってきたところでおれの1000円札が返ってくるわけではないんですので寂しいのです。寂しいのよおれは。でもそこまではいつも言い切れないし実はほんとに誰より寂しいのはおまえだっていうのはおれにだってわかってしまっているので、おれたちはふたり脚を並べて擦り付けあいながら寂しいね寂しいね、なんて、寂しいね。おれの目玉をぬるぬると抉った虚しさがおまえの指だったらもしかしたら許せたかもしれないよ、なんてさらに一献。期待なんかしてないんじゃないかなんて嘘。おれたちはいつでも寂しいサミシイ4本の脚。
でもおまえは寂しいなんて一度も言わなかったしそれだからおれたちはその言葉を信じて信じて信じるからねなんて言外にさりげなく添えながらおまえが強いことに心から感謝をしたりしたわけで、だっておまえが寂しいなんて言ったらおれは世界をむちゃくちゃに荒らして回るくらい悲しいしおまえが寂しいなんて言ったところでおれにもおれたちにもできることなんてなんにもなかったから、で。そしてそのことは誰よりおまえがよくわかっていたからおれたちの前では絶対にそういうことを言わなかったんだって今なら、わかる。おまえが折れてしまったらおれたちの今まではどこか遠く遠くの宇宙の果てのごみ箱にぐしゃぐしゃにして棄てられてしまって、なかったことになる、のをおまえは知っていたからきっとおれたちではなくておまえであのひとたちではなくおまえだったんだろう。おれはいつだって寂しいし悲しいから構わないけれどおまえが寂しいのは嫌だと思う。きっとみんなだってそう思ってたからなんにも言わなかったんだろう。たぶん。
だから今になっておれはおまえと脚を並べて寂しいよなんて言ってみるのにそれなのにおまえはなんにも言わない。おれだから、だろう。だろうな。たぶん。知らんけど。おまえは我慢するのが当たり前みたいになってるけどでもほんとにそれでいーの?ほんとに?っておれは言いたいわけでそんで叶うならば叶うならばおれの感情を抉った虚しさがおまえの柔らかい部分に取り返しのつかない傷をつける前にその場所に立ちはだかって手や足や腹や背中や使えるものはなんだって使っておまえを守りたい、と思う。ほんとはおまえだって寂しいはずで悲しいはずでおれたちの何倍か何十倍か何万倍かだって泣きたかった、はずで、おれたちは、、、おれは、おれのわがままで自己満足でおまえに一度だってそれをさせてあげられなかった、から。だから今になってもおれはおまえと脚を並べて寂しいよなんて言ってみるし、だからおまえは曖昧に笑って寂しいよとも悲しいよとも泣きたいよとも言ってくれない。その笑顔は実のところ静かにおれを責めて責めて破れるほど、で。
栗ちゃん。
栗ちゃんの細い足首で折れて曲がった骨は誰が治してくれるんだろうそのときに溢れたたくさんのたくさんの気持ちは誰が掬ってくれるんだろう。栗ちゃんがそれを飲み込んでしまったら誰がそのことに気づいてあげられるんだろう。おれの虚しさはその答えをどんどん吸い込んでドロドロに融かして真っ白に濁った愛情まで一直線でそれはどう足掻いても消えてくれない。栗ちゃんがそれを飲み込んでしまうまで。おれのわがままがきみを傷つけた、なんて、眠らない窓辺に花を並べて、そんな冗談でおれは曖昧に笑う栗ちゃんの腕をつかんで宇宙のごみ屑。嘘。それでも栗ちゃんはきっと泣いてくれない。
栗ちゃん。
おれは栗ちゃんになにかしてあげられたことはあっただろうか。これからなにかしてあげられることはあるだろうか。おれはわからない。栗ちゃんがいないからわからない。脚を並べて天井を見て、寂しいね寂しいね、なんて、寂しいよ。おれは寂しい。栗ちゃんがいないから寂しい。栗ちゃんが遠いから寂しい。栗ちゃんがなんにも言ってくれないから寂しい。おれがこれだけ寂しくて悲しくて泣きたいんだから栗ちゃんはその何倍も何十倍も何万倍も寂しくて悲しくて泣きたいに違いなくてそのことでまたおれは寂しくて悲しくて泣きたくなる。おれがだめたら、おれだからだめなら、誰にだっていい、から。寂しいって悲しいって泣きたいって、泣いて、ほしい。だっておれは。
栗ちゃん。
おれは
栗ちゃんが帰ってきてくれて嬉しいんだ。
寂しいね。



「ドイツ土産にきみがくれたビルケンのサンダルのタグはかわいいからまだ持っているんだ」






ばらばらの小銭にて、一献、一献、また一献。












シンパシーウィズアンコンディショナルラブ/トリスタンは夜会にてイゾルデと
ふと、視界に影が落ちたような気がする。目を開けると(それまでだって開けていたのだが)、目の前にくしゃくしゃの赤毛が見えた。それもかなりの至近距離に。後ろに立って、長細いからだをななめに折り曲げて栗松を覗き込んでいる。うわっ。驚愕のあとに、ひゅ、と短く息を吸う栗松を見届け、宍戸はベンチをまたいで横に寄るように手を振る。場所を空けるとやれやれと宍戸は隣に座った。なかなか気づかねーの。けっこう見てた?見てた。三時間くらいかな。それは困ったと栗松は軽く首をひねった。丸めた背中を伸ばす。すげー顔してたよ。え、と宍戸を見上げる。そばかすの散った削げた頬。飛び込む前みたいだった。そんな顔してたかな。我知らず頬に手をやって栗松は苦笑する。グラウンドは暗い。茫漠とした曖昧な砂漠のようだ。月の砂漠を遥ばると。宍戸は寒そうにジャージをかき合わせて洟をすすった。あー、と濁った声で唸る。冬になると風邪ばかり引いていると宍戸は言っていた。
またなんか難しいこと考えてたの。宍戸の右手がいつの間にか左の腿の上に置かれている。ユニフォーム越しにでも、その手が恐ろしく冷たいのがわかった。別にそんなことないけど。いつものように、その手の上に自分の左手を重ねて温めてやりながら栗松は答える。ふうん、と鼻から抜けるような宍戸の声は、その調子だけで、全然全く納得なんてしてない、と訴えていた。栗松は誰よりも臆病だ。そもそも他人に引け目のない少林寺や何でも笑い飛ばす音無や、臆病なくせに決して引かない壁山や、怖いものなどなにもないくせに臆病なふりをしている宍戸とは違う。今はこうして心の中を気遣われることが何より怖い。虚勢を張っているだけ強がっていると気づかれ、その上で労られるのが、何より。怖い?と。全く嫌になる、と栗松は思う。本人が言うところのラブの一点張りだけで、こうも簡単にあちこちに手を突っ込んで掻き回されたのではたまらない。だから、そうでもないよ、と言ってやる他はない。マダムサリバンとて指先で伝えたものを。
ふとからだを寄せてきた宍戸が、右手を栗松の腰に回した。冷たい手だ。普段はこんな風に直載になにかをしようとするタイプでもないのだが。不自然にからだを強ばらせてしまったせいだろうか、宍戸がこめかみで栗松の側頭部を打った。聞け。聞いてるよ。呆れてついたため息がしろい糸のようになって流れた。いつもは、話を聞かないのも宍戸なら、わけもなく落ち込むのも宍戸だった。いつもなら。寒いからだよ。宍戸はまた洟をすすって、濡れたような声で言う。春になったら、花も咲くし、鳥だって飛ぶ。あのさ(、と宍戸がこちらを向く)、おれ、今日しゃべりすぎじゃない?栗松は呆気に取られ、ぽかんと口を開けた。ねえ。宍戸は栗松の額に自分の額を押し付ける。栗松はその額を額で小突き返した。いてえ。聞いてる。聞いてるし、しゃべりすぎ。そんで、近い。あそお、と宍戸はちょっと唇を尖らせた。それでも栗松の腰に回した腕は離さない。熱でもあるのかね。そう言って自分でだらしなく笑う、宍戸は確かに熱でもあるみたいに見えた。
宍戸はいつもこうやって栗松の中に手を突っ込んでいいだけ掻き回しては、それをラブだと嘯き、怖いものなどなにもないくせに臆病なふりをして、熱でもあるみたいにしか笑えない。宍戸はばかだ。ばかでどうしようもなく救えなくて、それでもときどきは、栗松の方がすくわれる。いとも簡単に。春になったら。栗松はまばたきをした。まぶたも鼻のあたまも指先も、全部が全部冷たくて、嫌になる。花も咲くかな。咲くよ。恨めしいと思った。疎ましくて仕方がないのに、迷いない宍戸の言葉には、こんなにも簡単に、すくわれる。だからそんな顔しないで。不意に抱きすくめられて、息がつまった。しないで。しないよ、と栗松は答えた。つられるように。それでも宍戸は笑った(ように感じた)。それしきの言葉で安心する宍戸だ。栗松のするすべてに、ラブだなんだと嘯いて。目の前には曖昧で茫漠とした砂漠。冬の至りの月の砂漠である。遥ばるとゆけるのならいいと思った。宍戸とゆけるのならば、冬の至りにも花など咲くだろう。









サンドストーム
宍戸と栗松。
はっと目を開けたときに視界をさらったものが見覚えのない天井だったもので、かの名作のかの名シーンを蘇らせながら無意識のうちに鼻に触れたらそこがひどく腫れていた。しまった、と思う。いろいろ、を思い出してしまったからだ。ちょうどそのときに彼から見て左手にある扉が細く開いて、ぬっと音もなく痩せた少年が入ってきた。しまった、とまたも思う。さっきの瞬間に彼のこともまた思い出していた。とっくに。くしゃくしゃの赤毛をした少年は足音を殺すようにひたひたと彼のベッドに歩みより、枕元にスツールを引いてきてどっかと座った。平気?ぶっきらぼうな声音に栗松は素直に頷いた。よかった。彼はうすい唇を横に引いて笑う。痛い?栗松は再度鼻に触れる。鼻血は止まっていた。栗松の鼻の低い稜線を跨ぐように、申し訳程度に絆創膏が貼られていて、それはこの赤毛の少年が貼ってくれたものだ。今度は横に首を振る栗松に彼は笑った。おまえ頑丈だな。答えようとした喉に鉄くさい塊が絡んでひどく噎せた。教室より先に保健室に入ってしまった、と思った。
入学式の掲示板は真新しい制服の新入生で埋め尽くされていて、そこに貼られたクラス分けの一覧と栗松の間には無限のようにたくさんの後頭部が並んでいた。背の低い栗松は背伸びをしてもジャンプをしても前の人垣を越せず、かといって無理やり人波を縫って先に進むことなどは性格上どうしてもできなかった。見知った顔がいないことになんとなく寂しさを覚えながら、栗松は家畜のように無限の後頭部に埋没し、先に立つ連中が早く去ってくれることをじりじりと待つ。すぐ隣には栗松よりもだいぶ背の高い女子生徒が立っていた。すらりと手足が長く、ボブヘアーを無造作に揺らす整った容姿だが、なぜかしきりに眉をしかめ、目を細めている。目が悪いのか、と思ったが、彼女が使うべき眼鏡は彼女の額にずり上げられていた。華やかで派手な赤ぶちの眼鏡。手に持ったペンとメモはなにに使うのだろうと思ったが、それきり栗松は彼女から目をそらした。わけもなく肩をすくめる。
ふと顔を上げると、栗松の斜め前に小山のように巨大なパンチパーマがのっそりと立っていた。ぎょっとして目を見開く。制服が真新しいので恐らくは自分と同じ新入生なのだろうとは思ったが、それでも栗松は彼から目が離せなかった。ぼんやりと掲示板の方を眺めていたパンチパーマは、ふとなにかに気づいたように下を向いた。どうも誰かと話しているらしく、数度頷いてから少しからだを屈める。しばらくすると彼の丸太のような腕を伝って、栗松よりもさらに小柄な少年が彼の肩によじ登った。手も足も冗談みたいに華奢で小さく、豊かなポニーテイルを揺らしているくせに、清潔に剃り上げたあたまをしている。栗松はまばたきをした。パンチパーマが自分の顔のすぐ横に座っているポニーテイルを見て笑う。その顔が驚くほどに優しかったので、栗松は思わず詰めていた息を吐いた。にこりともしないポニーテイルがふと視線を巡らせて栗松を見た。慌てて目をそらす。強い視線だった。耳がやけにちりつく。
そんな連中を見ているうちに、目的地はすぐ目の前に迫っていた。栗松は背伸びをする。目の前のやつの背がやけに高くて邪魔だった。彼を避けるように自分の名前を必死に探す。あ。真ん中よりもすこし右側ぐらいに自分の名前を見つけた栗松が、所属クラスを確認しようとした瞬間、目の前の少年が振り返った。ゴッ。鈍い音はあたまの奥から聞こえたような気がした。顔を突っ放されて、最初はなにが起きたのかわからなかった。しかし、ふと顔を抑えた手にまるい赤がぽたりと落ちたそのとき、痛みと熱が同時にやってきた。え、あ、わるい。栗松の鼻をひじでぶった少年がさして悪びれもしない様子でそう言って、そして今、栗松は保健室にいる。なんか。赤毛は髪の毛をくしゃくしゃと掻きなが言ったら。ごめん。栗松はからだを起こす。もしかして運んでくれた?や自分で歩いてたよ。おれついてったけど。なんか血ィ止まんなくて、寝てなさいって、先生が。
あ。その言葉に、鼻に詰められた脱脂綿を抜いて確認して、栗松は顔を上げた。あの。相変わらずぼんやりとした表情の赤毛は、あー、と頷く。あれね、洗ったら落ちたから平気。栗松の鼻血を止めたのは赤毛の真新しい学ランだった。彼は前のぼたんをすべて外し、ためらうことなくその裾を栗松の鼻に押しつけた。これで押さえてて。栗松は言われるがままに両手で学ランの上から鼻を押さえる。真新しい学ラン。上向いて。次にかけられた声に栗松がはっとすると、赤毛は下から栗松を覗き込むようにじっと見ていた。くしゃくしゃの前髪の隙間から彼の目が見える。きれいな色だ、と思った、その次には彼の白い指が栗松の鼻に伸びてきて。そして。あー、そう、ですか。栗松は鼻に触れる。そこには絆創膏が貼られていた。つめたい指だったな、と思った。あの、なんかごめん。ん。殴ったのおれだし。あ、えと、入学式とか。終わったよ。今日もう帰っていいって。えっあっ、え、そう、なの。ん。赤毛は頷いて立ち上がる。
ほら。え。帰らないの。栗松は目の前に伸びてきた彼の手と彼を順番に見比べる。帰ろ。彼は栗松をじっと見下ろしている。くしゃくしゃの赤毛の下から、じっと。しろく細い指先が栗松の前で揺れる。栗松は視線を下げた。彼の学ランの裾が濡れている。彼のつめたいしろい指。その指が、栗松の鼻に絆創膏を貼ってくれた。うん。栗松は自分の手をそのしろい指に重ねた。ありがとう。はにかんだように笑う彼はつめたい指をしていた。そのつめたい指が、栗松の鼻に絆創膏を貼ったのだ。この上なくやさしく、静かに。









ぼくの負けだ
宍戸と栗松。8月5日に寄せて。
彼らの出会いのおはなし。イメージはびーこさんとびーこさんのすきなまんが。
いつもの格好だと夜が寒いと思う日が、うだるような夏の宵にも何回かはある。それもひと月のうちに。まぶたの裏にゆっくり月が這うような夏の夜はとろりとねばっこい。しなしなと虫が鳴いたり車の音がふつりと途絶えたり空の向こうが桃色に霞んだりしているような夜は苦手だった。無駄に多い、と思う。不必要なものが、無駄にたくさん。あまり日焼けする体質でもないのに普段から晒すことのない宍戸の骨ばった脛は、この時期にはそぐわないくらいにしろい。くしゃくしゃの前髪をまとめて上げてクリアブルーのコンコルドでぐさぐさ差し、眉を削りながら宍戸はなんだか眠たいような気になってきた。日付も変わる前なのでまだ寝るには早いのだが、夜の濃度が高いと、宍戸はどうしてもそこから逃げ出したくなる。ついでに脛にわずかに生えたぱやぱやの毛も全部抜いてしまった。剃刀と毛抜きをティッシュで拭きアルコールを吹き付けてからそれらを片付ける。さらについでにとずぼんとパンツを引っ張って中を覗いた。柔らかく赤みの強い髪の毛や眉毛と同じ種類とは思えない、ねらりと寝かしつけられた量は少ないが黒い毛を見た瞬間に、今日は止めとこう、と思った。自分には無駄なものが多い、と。
いつもの格好だと夜が寒いのは、無駄なものが多いと自分が思っているからだ、と宍戸は思っている。二の腕までまくっていたラグランを手首まで下ろす、それしきのことに落ち着いてしまう。なんだか自分の顔を見るのは久しぶりなような気がしたので今日はさっさとコンタクトも外してしまおう、と階下に洗浄液を取りに行ったら、リビングのテレビだけついていてその前で兄がだらしない格好で寝ていた。ちぃ兄風邪引くずら。軽く肩を蹴飛ばしても兄は起きなかった。明日も朝が早いはずなのでさっさと部屋に引っ込めばいいのに、と思いながら、冷蔵庫から洗浄液とコントレックスを持ってまた部屋に戻る。デッキの前に散らばったDVDのパッケージをちらりと見て、あれが噂のタイバニかと思った。兄の今の彼女はアニメが好きなひとだ。無趣味で健気な暴力兄は最近ガンダムSEEDを必死で観ている。前の彼女のりぃちゃんは宍戸にもとても優しかったので、よりを戻せばいいのにと宍戸は今も思っている。
部屋に戻ってコンタクトを外した。洗浄液の中に沈んだふたつの瞳孔を霞んだ目でぼんやり眺める。宍戸は裸眼では生活ができないくらいに目が悪い。前髪とカラコンは宍戸の鎧だった。細く削った眉の下の眠たげな一重の奥の瞳孔は色が薄く、青みがかった薄い灰色をしている。おかんは実は外人とやったんじゃねえの、とさすがに当人を前にしては言えないが、日本人離れというのはまさにこういうもんじゃねえの、と、たぶんそれは諦めにも近い感情だった。前に栗松が泊まりに来たときに、一度だけ、前髪を上げて眉を削ってカラコンを外す、といういつもの流れをついうっかりやってしまって、栗松はえらくびっくりしていた。鼻から上は、合宿のときでさえも晒さなかった。まぁいいやと開き直っておれの顔どう思う?と訊いてみたら栗松は少し考え、まじめくさった声でわるくないと思う、と答えた。笑ってしまう。そうして栗松は宍戸のしろい額にちょっと触った。栗松の小さくてまるい指先。
なんにも怖がることはないのに怖がってばかりで、小さい頃から、すべてを隠しておきたかった。持てるもののすべてを。なんで触ったの?と問いかけると、栗松は自分の額を指して、ここになんかついてると思って、と答えた。鏡で見るとそこにはほくろがひとつ、いつの間にかできていた。額の右の方、生え際にごく近い場所。その頃にはもう宍戸は栗松のことがとても好きで、本当に好きで、あのときの栗松はそれを知っていただろうかと思う。怖がってばかりの宍戸には、怖くないものなんかひと握りしかなくて、だからいつでもありとあらゆるものから隠して、隠れて、やり過ごそうとしていたのに。あの夜も本当に寒くて、震えるような気持ちで眠った。たくさんの無駄なものものと、有り余る沸き立つような感情。早く追い出さなくてはと思った。どうせいずれはそうなるならば、嫌われてしまう前に、忘れられたいと思っていた。わるくないと思う、なんて。栗松が、そんなことを言うので。
コントレックスを飲んでしまって、もう一度ずぼんとパンツの中を覗いて、なんかパンツゆるいなと思ったら夏はもうすぐそこで宍戸を津波のように飲み込んでしまう。今日もいつもの格好では寒すぎる。栗松の声が聞きたいと思った。月がまぶたの裏を這う緩慢な夜には、孤独が骨まで抱き締めて離さない。
ぷ、ぷ、ぷ、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる
「出ねえし」










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宍戸。
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