ヒヨル そめおかとかげののはなし 忍者ブログ
女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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す、す、と彼が一歩ずつ足を踏み出すごとに、彼の周囲にけぶるように霧が立ち込めていく。視界を奪われたフォワードの背後から音もなく現れた彼は苦もなくボールを奪い、フォワードが追いすがる前に味方に繋いだ。ふ、と小さく息をするのが見える。まだ霧の気配の残った風におどろ髪をぞろりと撫でられながら身構えた、ところでホイッスルが鳴った。おのおの散っていく選手たちのうち、明るい色の髪の毛をお下げにした、少女とみまごうミッドフィルダーが彼に駆け寄り、何やら話しかけている。染岡は脚を投げ出してベンチに座っていたが、ホイッスルが鳴ったら彼のところに行こうと思っていた。さっきまでは。その気持ちが想像以上にあっさりくじかれて、ふてくされるような気持ちで空を見上げた。いい天気だ。未来の空は自分たちの時代と同じ色をしている。どういう時代のどういう世界、どういう仕組みになっているのかは何度説明されてもわからないが、染岡たちは約10年後の後輩たちとサッカーをしている。お台場、サッカースタジアムという大仰な場所で。
ついさっきまで隣に錦が座っていたが、神童に呼ばれてそちらに行った。どうやら新しいフォワードの調整らしい。錦はいいやつだ。どういう事情かはわからないが、染岡を師匠師匠と慕ってくる。同い年のくせに。それでも不思議と染岡も錦のことを知っていたし、いつか自分が彼にサッカーを教えることもなぜかわかっていたが、錦がいいやつなので別に反発する理由もない。違和感といえば違和感ではあるが、することはサッカーしかないので、まぁ構わない、と思う。練習が終われば染岡たち雷門イレブン(錦たちも雷門イレブンなのでややこしいこと甚だしいが、要は最初の雷門イレブンだ)はごく普通に電車に乗って河川敷駅で降り、家に帰る。そこは確かにいつもの稲妻町で、掘っ建て小屋同然のサッカー部室と新築されたばかりの雷門中があり、鉄塔が穏やかに佇んでいたりするので、染岡はいつも少し混乱する。くまのぬいぐるみみたいなのが時空を超えることについて説明をしてくれたのだが、円堂を初め、最初の雷門イレブンは恐らくみなよくわかっていないだろう、と染岡は思っている。よくわからないが、サッカーはできるし、サッカーができるなら、なんの問題もない。
お下げの男が離れ、彼はこちらに近づいてくる。肩の回りが、まだかすかに霧にけぶっているような気がする。どう。彼は陰気に問いかけてきた。いいんじゃねえか。染岡は素直にそう答える。染岡の視線に気づいたように、彼は手のひらで肩を払った。霧が潮の匂いの風に溶けていく。それ、どういう仕組みなんだ。仕組み、と彼は言葉を切り、少し考え込むような仕草をした。霧のこと。そうだよ。気力が可視化してるって。よくわからないけど、と彼は首を左右に傾ける。いいの。なにが。それには答えず、彼はふとグラウンドの一方を見た。つられてそっちを見ると、錦がじっとこちらを見ている。じゃ、と、彼は軽く手を挙げると、錦とは反対の方へ歩いていった。変わったやつじゃのう。いつの間にかこちらに寄ってきていた錦が彼の後ろ姿を見て、しみじみと言う。師匠と気が合うようには見えんがの。おれもだよ。眉間を掻いて染岡は立ち上がる。錦に促されるままにゴールに向かう、耳をやはり潮風が撫でた。
不思議だらけでいながら穏やかな世界の、奇妙に取り繕ったように穏やかな場所に日常を置いて、それで募るものはなにか、と問われ続けているような気がしている。それをどうする。飼い慣らすのか解き放つのか、あるいは黙殺して目をつむるのか。どうする。気が合うようには見えない連中との、神経をすり減らすばかりの毎日にいて、そのせいで苛立ってばかりだったような気がしていたのに、今はこの場所の方がずっと息苦しい。こみ上げてくるものをこみ上げてくるままにシュートを何発かゴールに蹴り込んでやる。隣で錦がなにか言っているが、もうそれも聞こえない。どうする。どうするどうするどうする。ふと、背中を冷やいものが撫でたような気がした。振り向くと、離れた場所に影野がいた。影野はじっと染岡を見ていた。恐らくは、ぞっとするほど冷ややかな目で。
(おれは間違っていなかった)










トジヌ
染岡と影野。
その目は閉じぬ。
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そういえばしんとした場所にあれがいないと不安になるのだった。騒がしい中で音の少ない方をたどってゆけばいつも自然とあれのところへゆけたのに、この場所はどこもかしこも騒がしくて辟易したのだ。そういえば。おなじように針のような苛立ちをたどるといつも円堂にたどり着くので、最近はそこばかりにいて下へ下へ突き進む円堂の機嫌をなにも言わずに眺めるばかり。円堂も複雑なのだ。だから苛ついている。生きていた祖父、ままならない試合、なにより、周りがよってたかって自分に吹き込んでいた嘘。円堂も大変だ。みたいなことを言うと円堂は世の中の不平不満が凝り固まったようなどろりとした目でこちらを見る。睨むほどの馬力も湧いてこないらしい。なにも言わないのは円堂が円堂のあたまの中にぎっしり詰め込んだ感情が、彼のそれとおなじものであることを感じ取っているからだろう。そういうものは、あらゆる疲弊においてむしろ冴えざえとしてくるのだろうか。円堂は日本に帰りたかった。そして、染岡も。
少し前に送ったメールが時差とかナンとかで返ってきたのが今朝の早朝。どうということもない。あれは話題づくりが本当にへたくそで、だからだろうか昨日の朝食はパンだったなどと焼きたてのトーストの写真を送ってきて、小麦に焼けたその表面がバターでうすく光っているのが妙に胸にきて困った、りもした。(のも彼がどう返していいのか迷うような/もちろん話題づくりが本当にへたくそなあれでなくても/メールを送ったせいなのであれは悪くない)にしても郷愁郷愁郷愁、耐えがたい。ちっぽけな携帯電話のこれまたちっぽけなディスプレイから大海嘯がごと溢れ出した懐かしさがあっという間に自分を飲み込みひたひたにふやけさせるのを感じてしまって、だからおれは女々しい、みたいにわざと大きな音で携帯を閉じたら同室の佐久間に嫌がられて、あーやっぱり日本にかえりてえなあ、と円堂にたどり着くのであった。そもそも部屋割りも気にくわないしぬけさくな佐久間の話は長くて嫌になるのだ。
隣に座ってしばし。円堂は丸く口を開いて喉の奥で唸ると立ち上がり、蹴上げたボールを抱えて大股でラウンジを出ていった。それに続くのが何人か。いつものことだ。そのせいで円堂はあひるの先頭みたいに滑稽に見える。似たようなもんかと思わなくもない。まとめて人間に捕まって羽をむしられて焼かれて煮られて食べられる、群れの先頭が、寂しがりというのは、そういうことなんだろう、みたいな。だったらあの頃のおれもあれも、そういうことだったんだろう。いつか焼かれて煮られて食べられる、のを、知らないのは自分たちばかりだった。そんな気がする。今となっては。円堂に続いてこんなところまで来てしまった自分と、なにも言わずに円堂を見送ったあれがいて、(本当は)ごく自然に行われた淘汰の中で、たくさんのものを蹴落としながら、郷愁郷愁、郷愁、などと。いきなりがらんとしんとした場所に、あればかり探している、これは寂しいのでも郷愁でもないのかもしれないと、影野ならひそやかに嘲うのかもしれない。(あーーーーーーパンくいてえ)









イキロテレパス
染岡と円堂、ときどき影野。
後輩に引き継ぐものというのは思った以上に少なく、自分のざっくりとした引き継ぎ(練習計画の立て方やキャラバンに乗る席決めのくじの作り方なんか)を終えたあとは手持ちぶさたに任せて宍戸にドラゴントルネードを仕込んだりしている。少し前まで忙しげに働いていたマネージャーや目金も引き継ぎを無事に終えたようで今は安穏としているし、それと一緒に音無まで安穏としているのはどうかと思うが、一時の慌ただしさに比べたらサッカー部にもずいぶん穏やかな日々が戻ってきた。殺伐としているのはあそこだけだなと染岡は眉間にしわを寄せる。円堂と栗松がファイルを除き込んでなにやら言い合っている。その姿はすっかり馴染みになった。円堂たちの卒業に合わせてサッカー部は大きくシステムを変えようとしており、栗松は実質それを引き継ぐ最初のキャプテンだ。増えに増えた部員の、主に初心者を中心とした大勢はすっかり手慣れた壁山がうまく練習を割り振り、少林寺と宍戸は今や一軍メンバーの中核を担っている。
なにやら揉めている円堂と栗松を、いつの間にか隣に来て眺めていた影野が、大変だね、と他人事のように呟く。円堂も短気だからな。仕方ねえよ。実感を込めた言葉は予想以上に響いたらしく、影野は噎せるように少し笑って、そうだね、と応えた。たまごろうは?練習に混じるって。さっきまで影野はゴールキーパーの相手をしていた。多摩野は天賦の才を持つ円堂などに比べたら見劣りはするが、持久力もあり強い腰をしたいい選手だと思う。虎丸率いるFW陣の攻めの姿勢を後ろで支える、優しく明るいよいキーパーだ。あいつくらい優しかったらな。そう言った染岡の言葉は、突然ファイルを取り上げて栗松のあたまを思いきり殴り付けた円堂を見てため息に変わる。情けないことに、あれでも円堂は栗松が好きで仕方ないのだ。ただ、好きであるがゆえの厳しさなのだとは今やチームの誰ひとりとして思っていない。栗松が好きで仕方ないのとは全く別の問題で、円堂とはそういう人間なのだった。情けないことに。
いつもの光景をいつもの光景と見ながら、影野はゆっくり首を回した。引退してもちゃんと部活来るのな。染岡の言葉に影野は唇の端をそっと吊り上げた。相変わらず、薄い、と思う。松野が来いって。あと、半田とか、円堂も。あいつも?後輩の面倒見るのは義務だって。円堂はほんとに壁山たち好きだね。まぁなぁ。円堂は何発かファイルで栗松を殴り、それだけでは飽き足らないのか背中を蹴飛ばしている。おーおー今日は派手だな。腹に入ったら止めに行くか。まだ大丈夫だよ。栗松は咳き込み、円堂に向かってなにやら言いながら腕で顔をかばうようにした。いつもなら殊勝にうなだれて円堂に従うのだが、今日はやけに粘る。円堂の顔がみるみる険しくなった。怒声が爆発する。思わず一歩踏み出した染岡の手首に冷たいものが絡んで足を止める。影野は激昂する円堂を見ながら、首を振った。大丈夫だから。大丈夫っつったってお前。首を返すと円堂の拳が栗松の側頭部を張り飛ばしていた。指先がそわりと寒くなる。
寂しいんだよ、円堂も。影野の言葉に、染岡は眉をひそめた。寂しい?影野はそっと染岡の手首に絡めた指を離した。つらくて、寂しいし、あとは悔しいのかな。染岡はもう一度円堂を見る。おっとり刀で寄ってきた半田も、言い争うふたり(と言うよりは激しく言い募る円堂)には手を出していない。少し離れた場所で、見守っている。なんとも言えない、憧れにも似た目をして。栗松はいいキャプテンになると思う。影野もまた夢見るような声で呟いた。だから余計許せないのかな。染岡は無意識に手首を撫でながら、もはやなにを理由に怒っているのかを自分でも忘れ去ったに違いない円堂を見た。円堂の憤怒。いつも近くで見てきたものが、やけに遠く見えて動揺する。情けない円堂は、手を伸ばして栗松の胸ぐらを掴んだ。殴る。と。脳裏によぎった殴り飛ばされてよろめく栗松の姿は、円堂自身が裏切った。円堂は力なく手を離し、栗松の胸を突き退けるようにした。栗松が掴まれた胸元を撫でる。落ちたファイルを拾い、砂を払って、円堂に渡す。
よくわからねえんだけど。言いながら振り向くと、影野は少し笑った。染岡は、幸せだね。なにがだよ。ううん。やはりおかしそうに影野は笑うと、染岡の背中をぽんぽんとなだめるように軽く叩いて足を踏み出した。栗松の肩に触れて、張られたあたまを抱えるように腕を回す。影野のユニフォームに顔を埋める栗松を見て、どろりと疲れた顔をした円堂を見て、その円堂の肩を叩いて揺さぶる半田を見る。幸せなのだろうか。これは。幸せなのだろうか。いーなーと声がしてはじめて気づいたが、隣には宍戸が立っていた。おれも栗松慰めたい。行けばいいだろ。何の気なしに言った言葉に、宍戸はあからさまに染岡を小馬鹿にして笑った。そういうとこわかんねえから染岡さんもてねえのな。関係ねえよと尻を蹴飛ばすと宍戸は無抵抗にべしゃりと倒れた。宍戸はなにも言わずに立ち上がり、手と膝を払って、にっと笑う。おれが今出ていくとかどう考えてもひどいでしょ。おれらこれでも先輩たちのこと尊敬してるし、好きなんですよね一応。一応だけど。
ますます困惑する染岡を無視して、宍戸は果敢に円堂に歩み寄った。なにやらいちゃもんをつけたかと思うと張り倒される。円堂はあたまを振って腕で目元を乱暴に拭うと、影野の腕に巻かれていた栗松をもぎ離すように連れていった。なぜか、円堂の方が途方に暮れた顔をしていたような気がする。円堂の方が、裏切られ、傷つけられたように。影野は栗松を引っ立てるように連れていく円堂をしばらく見ていたが、不意に染岡の方を見て、にこりと笑った。胸に痛いほど優しく。いたたまれなくなって染岡は目をそらした。そんなにも孤独だったのか、と、今更ながら心臓を浸す羨望に気づく。手首がいつまでも冷たかった。きっかりと、影野の薄いてのひらの形に。









寂寥轟轟唱歌
染岡と影野。
壁山が珍しく歯切れの悪い物言いをしているのを、影野はベッドに横になったままぼんやりと聞いていた。壁山は病人の陰気がべたりと層になったしろい部屋には居心地のわるい様子も見せずに、言葉少なに横たわる宍戸の手を恐らく無意識に握ってやっている。今度は沖縄に渡っていたとかで、黒糖や紅芋のちんすこうだのシークヮーサー味のハイチュウだのを手土産に下げてきて、それらはありがたく松野が食い散らかした。キャプテンはもうここには来ないって。ひとしきり互いを労ったあと、壁山は厚いくちびるを曲げてそう言い、本当にすまなそうに巨体を縮めてうなだれた。それを聞いた風丸が覗く片目を大きく見開く。なにかろくでもないことを言い出しそうな風丸を先制で半田がはたいて止め、なんでだ、と染岡が低い声で訊ねる。ゲエッと松野がわざとらしくげっぷをし、壁山はますます途方に暮れたような顔をした。各々が焦り、いら立ち、絶望し、それらがゆくあてもなく尽きていった病室で。
円堂が前に来たのは風丸が来る前、栗松が急患のように運び込まれてきた少しあとだった。円堂は相変わらずの不景気な顔をして相変わらずの不景気な面々を見渡し、座り心地のわるい堅い丸椅子に腰かけていた。入り口の近くで、ひとり。見舞われたはずの彼らはそんな円堂の様子に気を揉み、恐らくはこうなることをわかっていたのだろう壁山(他のメンバーと一緒にわざわざ時間をずらして見舞いに来ていた)が置いていった菓子を勧めた。円堂は勧められるまま黙々とそれを食った。松野がいやな顔をする。いいだけ食った円堂は眉を寄せて病室をぐるりと見渡し、ため息をつく。ごちそうさん。なんだよ。半田が声をあげる。もう帰るのか。円堂は立ち上がりながら、驚くほど去りがたそうな顔をした。明日出る。そうか。拍子抜けしたような半田に円堂は視線を向け、ここはいいな、とぎこちなくほほえんだ。おまえらといると落ち着くよ。あとこれ目金から栗松に、と半田はでかい箱を受け取っていた。コズミックプリティレイナ、のロゴがビニルから透けて見えた。
寝てばかりだと背中が痛いのだと影野はそこではじめて知った。壁山はいいやつだな。彼が行ってしまったあと、妙に打ち沈んだ病室で影野は別のことを考える。あんなこと、言いたくて言いにきたわけじゃないだろうに。円堂もだからわざわざ壁山に託したのだろうと思った。壁山ならそれを誰より上手に伝えてくれるだろうと。効果はてきめんだった、と言わざるを得ない。あまりに上手に伝わりすぎた。円堂はここには二度と来ない。そしてその考えは決して翻らない。全員にそれがわかってしまうくらいに。それをわかって、受け入れて、受け入れられるはずもないのに、そうしなくてはいけないのだと突きつけるみたいに。誰もなにも言わなかった。風丸は呆然と立ち尽くし、松野は握った拳を震わせ、半田は顔を伏せた。少林寺は身動きもせず、宍戸は死んだように息をひそめ、栗松は視線を扉へと投げかけた。染岡が出ていったままそこは開かない。
影野の枕元には目金が栗松によこしたレイナのフィギュアが飾られている。けばけばしいピンク色の服を着て、光線銃を構え、レイナは虚空に向けてにこやかにほほえむ。栗松はそれを照れくさそうに影野の枕元に置き、レイナは宇宙を救うんでやんすよ、と言った。妙にまじめな声で。風丸はここに来て数日は口もきかなかった。戦いの中で病んだ彼らにくらべれば、と、影野はどうしても言えない。染岡は泣いているだろうか。悔しかったろうか。彼らがどんなに悲しくても、自分たちはそこに手を伸ばすこともできない。円堂が自分たちを救わなかったように。影野は静かに目を閉じる。円堂は最初から言っていた。捨てていっても恨むなと。だから影野は恨まない。円堂は決して嘘はつかない。円堂は気づいてしまったのだ。きっと。もう戻ることはできないのだと。せめてそれを信じていたかった。なにが彼らを傷つけたとしても。おまえらといると落ち着くと言った円堂の痛いような顔を、信じていたかった。
自分たちはなにも知らない。そのことが円堂には大切だったのだ。焦りもいら立ちも絶望も尽きたこの乾いた部屋で、叶わぬ願いに盲目とあがき、声も掠れた自分たちを見て、それでも円堂はわらったではないか。戦いに病んだ円堂に、他になにを望むという。円堂だって救ってほしかったに違いない。円堂にこそレイナが必要だった。宇宙を救う無償の愛が。「殺そう」風丸がぽつりと言った。「だったら円堂を殺そう」それもわるくはないと思ったが、その前に染岡の手を握り返してやるべきかと思った。円堂ならそれを聞いても、いつもの不景気な顔で、いつかおまえらのために死んでやろうと思っていた、と言うだろう。平気な声で。影野はそのときも染岡の手を握っているだろう。気づかずにいることもできるだろうが、もしもそれに直面してしまったとき、やさしい彼はきっと泣いてしまうだろうから。










いつか死んでやろうと思っていた
影野と染岡と彼ら。
父というのは変わったひとで、それはごく一般的な意味での変わったより、もう少しひねった意味を持っている。影野の父は手先が器用なひとで、よく木や竹を削ったり果物を彫ったりしている。木彫りをするだけなら静かなひとだが、彫るものはやけにリアルな人体模型や内蔵標本だし、朝食にバナナが出るとつまようじで「面目躍如」だの「右顧左眄」だのと彫っては、意味もわからない子どもたちにたべさせる。きれいなアラベスクに彫ったりんごをベランダに置いておいて、見事に腐らせ母親に叱られていたのは今から三年ほど前のことだ。流れ出た汁がべたりと染みつき、ベランダはそこだけうすくろく跡が残ってしまっている。今でも。父は医局に勤めている。勤めていることは知っているが、父がどのような仕事をしているのか、影野は知らない。うちにいるときはよくシャルドネというワインを飲んでいる。酔っても酔わなくてもあまり変わらない、夜の砂場みたいなひとだ。母とは仲がよくて、姉とは気が合い、影野とは似た者同士な父の指からは、いつもあまかなしい果物のにおいがする。
雨降り、それもやわやわといつまでも降る雨の翌日は、グラウンドがおそろしくはしりやすくなる。たくさんのとっかかりがうすい砂を流されて攻撃的にむき出しになり、雨を飲んで引きしまった地面は置いた足をぽおんと軽快にはじき返してくる。左サイドを猛然と上がっていく風丸も、いつもよりぐっとけものじみた新鮮なはしり方をしていた。雨の翌日は空気中のこまかなちりやほこりが全部押し流され、空も山も絵画のように冴えざえとまぶしい。雲が刷毛で描いたみたいにざっざっと浮かんでいる。晴天の五月はさみどりがきれいだ。やんわりと雨の残り香がただよっている。音無がカメラ片手にラインの外をうろうろとはしり回っているのを、交代要員でベンチにつくねんと腰かけている壁山がはらはら見守っているのが見える。今日はグラウンドのコンディションがいいから、選手は自然と気持ちもからだも逸るのだろう。音無の足が水溜まりをはね上げ、それと同時に豪炎寺のボレーシュートが無人のネットを揺らした。円堂がベンチからブーイングよろしく腕を振る。隆起したグラウンドに足を取られて顔面から転び、珍しく負傷者席にすわる円堂の鼻には脱脂綿が詰められている。
影野の携帯には、父が彫ったへんな木の鈴がついている。親指の爪くらいの大きさで、ぐるっと「色即是空」と彫られていて、どのくらいうすく丁寧に彫刻してあるのかはわからないが、その木の鈴は驚くほど澄んだ音で鳴る。最初は目玉を彫ろうとしていたと父は冗談じゃなく限りなく本気っぽく言い、おかあさんがやめろって怒るからと今のかたちに彫り直したらしい。影野と姉とおそろいで、姉のにはあか、影野のにはあおいりぼんがついている。部活のあとに影野がかばんをさぐって携帯を取り出したとき、染岡がそれを見つけてなんだそれと手元を覗きこんだ。携帯から外して差し出すと、染岡はおっかなびっくりといった様子でそれをてのひらに乗せて眺めている。アレに似てるな。あれ?坊主が叩いてるやつ。あーあれ。確か姉も似たようなことを言っていて、抹香くさいものの苦手な姉はしばらくその鈴に近づきもしなかった。
ふーんとかへーとか言いながら、染岡は熱心に鈴をてのひらで転がしながら眺めている。一見がさつで大ざっぱだが、染岡はこういうこまかな細工ものに興味があるらしい。手先も器用だ。染岡のてのひらの中で鈴は機嫌よくころころと鳴いている。よく慣れた野良ねこみたいなその音に、春の静けさがふうわりと降りてくる。影野は髪の毛のすき間で目をほそめた。部室のちょっとゆがんだ鉄格子から、晴天が惜しげもなく投げこまれてくる。どんどんどんどん、まるで祝うみたいに。悼むみたいに。なにを?なにをだろう。染岡はグラウンドの土で汚れた指先でそっとりぼんをつまみ、やさしく振った。驚くほど澄んだ音、に、染岡は目を見開いて、影野を見た。ころんと鳴った鈴のうしろに、あてどない春の静寂が響きわたる。祝うみたいに。悼むみたいに。なにを?なにをだろう。そっと染岡の指から返された抹香くさい木の鈴。投げこまれた晴天がふたりの足元を吹き抜ける。
グラウンドはもう乾きかけて、風も止んで春ばかりが際だつほどあおい。うおーいそめおかー!てめっ片づけ手伝えよ!外から飛びこんできた声に染岡はスパイクを鳴らして部室を出ていった。その背中を見送り、影野はそっと鉄格子を仰いだ。とても静かだった。てのひらに残った木の鈴が、ころころとやわらかに鳴っている。染岡がしたようにてのひらで鈴を転がした。祝うみたいに。悼むみたいに。なにを?なにをだろう。影野はその鈴を染岡のかばんにそっと結びつけた。色即是空。その言葉の意味は今でもよくわからない。なぜだか逃げるように部室を出ていき、そのとたんにひどく後悔した。満たされた後悔。春の空はもうわずかにかすみ出し、軽くなった携帯を開くとメールが来ていた。父からだ。写真だけのメール。最近ずっと作っていた歯列の木魚が完成間近らしい。悪趣味だと思いながら、その実それがちっともいやではない。父はいつも仏さまみたいな穏やかな顔で木や竹や果物を彫っている。あまかなしい果物のにおいの指で。祝うみたいに。悼むみたいに。祝うみたいに。悼むみたいに。






春の迷路
染岡と影野。
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無印雷門4番と一年生がすき。マイナー愛。

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