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女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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松野は高校を卒業すると同時に稲妻町で就職を決めた。毎日精密機械相手に、しろい防護服を着て顕微鏡をのぞいている。座っているだけで肩こりばかり蓄積する単純作業。その代わり金はおもしろいように貯まった。同期は金髪をプリンにしたぶさいくな女やら、いかにもあたまのわるそうなピアスだらけの男やら、早い話が最底辺の高校から最底辺の連中ばかりが集まっていた。松野とおなじく稲妻町で就職をした半田は、今は特別介護老人ホームで車椅子を猛スピードで押しまくっている。じいばあがびびって寿命縮まるかと思ったんだけど。以前ガストでめしを食ったときに半田はあきれ果てたように言った。あいつら喜びやがんの。死ぬ気配ゼロだよ、ゼロ。ぎゃはははときたなく半田をわらい飛ばしながら、松野はそのときだけ妙に生きている実感をする。乾ききったつまらない日々。顕微鏡の中でひかる、なにに使われるかもわからない機械たち。
かつて共にひとつのボールを追いかけたメンバーは中学卒業でばらばらになり、そのうちの大半は高校を出ると稲妻町からも去った。大学進学をしなかった数人は、今でも月に何度か集まって飲んだり麻雀をしたりする。しかしやはり、残りのメンバーとは疎遠になった。言われなければ顔すら思い出さないほどに。円堂みたいに旅にでりゃよかったな。ソファにふんぞり返る松野のむこうずねを半田がかるく蹴飛ばす。ねーよ。つか円堂があほなんだよ。円堂はせっかく決まっていた就職先を蹴って、稲妻町を捨てて旅に出た。どんな理由でなにを考えているのか、まったく理解ができないまま三年が経つ。八月のあたまに富士山の頂上の消印がついたはがきが届き、それには円堂の手形がはみ出しながら押されてあった。生きていることは生きているらしい。そういえば影野も帰ってきてるなと半田がジンジャーエールをすすりながらにやにやわらって言った。
影野は相変わらず陰鬱な顔をして、そのわりに中学時代に一身に背負っていたなにか重たいものを全部置いてきたみたいだった。どこかからりとした気配に、松野はその肩にグーパンをかます。よおバカゲノ。久しぶり。影野は一発を甘んじて受け、そしてそっとわらった。なんか雰囲気変わったな。女できた?さあねと影野はすずしい顔で松野の言葉を受け流す。半田から影野が帰っているという話を聞いたその日に、電話をして飲みの約束を取り付けた。松野は飲むのはすきだが酒はあまり強くない。最後にサッカー部で集まって飲んだときには、ひどく悪酔いして吐き散らかし、おまけにブツを染岡に引っかけたりして大顰蹙を買った。もっともそんなことを気にする松野ではないので、今日は大丈夫かと控えめに聞いてくる影野のひざのうしろを蹴飛ばして、さっさと居酒屋に入っていった。
しんしんに凍った生のジョッキを合わせて煽り、テーブルに置いたとき影野の方がだいぶ減っていたので松野は再度ジョッキを持ち上げる。無理するなよ。影野は日焼けひとつしていないしろい顔の下半分をわらわせた。うっとうしい前髪は相変わらずで、松野はげんこつで影野の額をこづく。仕事は。明日休み。頑張ってるんだ。車買いてーんだわ。舌の上の炭酸を胃に追い落とし、松野はながいげっぷをした。きたないな。影野は苦笑する。ひひひと歯を見せて松野もわらい、まあ飲めよとよれよれのリストバンドの腕でジョッキを押しやった。元気。おー。そう。おまえは。元気。相変わらず目金と遊んでんの。まあね。影野はやわらかくわらい、やっぱり変わったなと松野は思った。ジョッキを干す影野の指はしろくほそく荒れている。アルコールでの手洗いが欠かせない松野の手とおなじくらい、荒れている。
大学たのしー。普通。影野は二杯目のジョッキに口をつけてぼそりと言った。かしこいやつばっかりだよ。げーと松野は露骨に顔をしかめる。なんで大学なんか行くんだよ。勉強なんかつまんねーだろ。影野はすこし考えるようにして、そりゃ、と言った。選択肢は多い方がいいだろ。その考え方がまず意味わかんねーんだよ、ぼけ。一瞬あっけにとられたような顔をした影野は、次の瞬間には心底おかしそうにくつくつとからだを揺らしてわらう。そうだな。松野はそれで生きてるんだもんな、と手の甲でまぶたをぬぐった。松野はいいやつだよ。今さらなに言ってんだよ。中学校んときからずっと、おれはいいやつだろ。影野はうんうんとゆるく数度頷き、次なに飲む、とメニューを手に取った。
松野はジョッキを傾けながら、ちょっと目を細めた。影野はうしろを向いたりうつむいたりしながら、気づけばずっと前でぼんやりたたずんでいる。なんにも知らない、なんにも見えないみたいに。そんな風なのに前にはしっかりと進んでいく。つまづいたりそれたりしながら、それでも影野はどんどんどんどん歩いていって、どんどんどんどんもとの場所から遠ざかってゆく。松野はそれが怖いのだった。今まで立っていたその場所を、自らの意思で捨てることがどうしてもできないのだった。よれよれのリストバンドの下には、今でもあの頃マネージャーが編んでくれたミサンガが巻きついている。誰にも見せない松野の弱み。みんないなくなるこの場所に、立っている意味なんてもうきっとないのに。
松野。酩酊しかけた脳に、影野の声が吹き抜ける。まだ待ってるの。松野はへらっとわらってジョッキをぐっと飲み干した。待ってるよ。わりーけどずっと待っててやるよ。影野は困ったようにわらい、このホッケうまいよ、と皿を押しやった。焦げだらけの身を箸でぐずぐずにつつきながら、松野の指は影野のそれをしっかりとつかむ。ずっとずっと待ってるんだから。めしくらい食わせてやるから。おまえこの町に帰ってくればいいのに。この町でじじいになってこの町で死ねばいいのに。






おれこげだらけ!
松野と影野。未来パラレル。
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木野のしろく細い足首をぼんやりと眺めながら、染岡は眠い、と思った。つまらない怪我を放っておいて悪化させるいつもの悪癖を遺憾なく発揮した染岡は、今は練習を全面的に禁止されている。どうせ退屈ならマネージャーの仕事でも手伝ってこいという監督の指示にしぶしぶ従って、今は木野が上った脚立を押さえながら、グラウンドから聞こえる歓声や罵声や怒声やそれを諌める監督のあきれ返った声に耳を傾けていた。ごめんねー。脚立の上で背伸びをした木野が言う。部室の電気は大半が切れて、蛍光灯にびっしりとほこりをまとわせていた。それらをひとつひとつ拭いて交換する、その作業を染岡は手伝っている。最初は自分が上ろうかと提案したが、染岡くんが落ちてきたらわたし死んじゃう、という木野の言葉になぜか納得し、染岡は安全弁の役割に甘んじた。傍らには交換されたふるい蛍光灯がごろごろと転げている。
木野が危なげない手つきで、ながほそい蛍光灯を丁寧に拭う。よくやるよ。ひとりごとみたいにぼそりと染岡が言うと、木野がくすくすとわらった。染岡くんだってよくやるよ。なにが。わたし痛いのはきらいなの。怪我のことを言われているのだとようやく気づいて染岡は赤面し、うるせえなぁと照れ隠しに声を張り上げると木野はますますおかしそうにわらう。脚立ががたがたと震えた。あ、こら。あぶねーぞ。あっごめん。ふふっと木野は息を吐くみたいにわらい、再び作業に戻った。中途半端にたくしあげられたジャージのすそが落ちかかっている。すりきれてぼろぼろになった生地に、目には見えない苦労がにじんでいるような気がして染岡はちいさくため息をついた。わ。木野がぐらりと体勢を崩す。わわわわわ、わ、あ、染岡くんあぶな。うお、と染岡は一歩退いて両腕を差し出した。狙いをあやまたずに木野がそこに背中から落ちてきて、蹴られた脚立がけたたましい音で倒れる。
もうもうと上がる砂ぼこりの中で、先にからだを起こしたのは木野だった。わあああああ染岡くん大丈夫?ごめんねごめんね!怪我はない?どっかいたくない?うーと呻いて、染岡は顔をのぞきこんでくる木野に手のひらを向けた。大丈夫。木野は?わたしは平気。ありがとう。心配そうに眉をひそめた木野が、今にも鼻と鼻が触れてしまいそうに近くまで顔を寄せてくるので染岡は急いで顔を背けた。やーあの、大丈夫なら、いいんだ。よかったな。そのときがらりと部室の扉が開いて、影野がぬうと入ってきた。すごい音。あはは、と木野がごまかしわらいを浮かべる。影野は脚立をまたいで近づいてくると、木野に手を伸ばした。大丈夫。ありがと、大丈夫。その手につかまって木野が身軽に立ち上がる。自然すぎるその接触に、なぜかのどの辺りがむずがゆくなるのを染岡は感じた。監督が呼んでる。わかった。気をつけて。平気だよ。木野は部室を出ていって、そしてほどなく引き返してくると染岡くんありがとう、とにこりとわらった。
影野は倒れたままの染岡には目もくれず、脚立をひっぱり起こして奥に片づける。なにしに来たんだよ。打ちっぱなしの地面に肩を思うさまぶつけた染岡はそこを撫でながらからだを起こす。手伝い。影野は両手を腰に当てて、あーとひくいため息をついた。さっきのどたばたで、転がしておいた蛍光灯はすべて砕けてしまっていた。飛び散った破片が変にしろくてかてかしている。ちりとり。影野はぽつりと呟いて、すーっと掃除用具入れまで行ってしまった。そこから砂まみれのちりとりと先がばさばさに広がった箒を出してきて、じゃらじゃらと音を立てながら影野は片づけをはじめる。破片は箒で撫でられるたびに地面やこまかい砂にこすれ、たくさんの鈴みたいなかん高い音で鼓膜を震わせた。
染岡がいなかったら。箒をざりざりと動かしながら、影野はぼそりと言った。木野死んじゃってたかもね。ありがとう。あ?ようよう尻を払って立ち上がった染岡が首をかしげる。なにが。木野。影野はながい髪の下からたぶん視線をよこし、妙に無感動に言った。助けてくれてありがとう。なんでおまえがありがとうとか言うんだよ。すきだから。最後の破片を丁寧にかき集め、立ち上がりながら影野は言う。いぶかしげな顔の染岡を見ながら。木野が、すきだから。染岡はその言葉をぽかんと聞き、やがて目の周りがあつくなってくるのを感じた。耳がちりつく。いや、あ、え?なに、なにがだよ。つかおまえ、それ関係なくね?あるよ。指で破片をつまんで燃えないごみに分けながら、影野は淡々と言った。関係あるよ。
染岡は言葉につまり、それあぶねえよ、と影野の手元を指さした。うん。影野はあたりを見回して、軍手借りてくる、と部室を出ていった。これだけよろしくと、先がばさばさに広がった箒を染岡に手渡して。染岡はぼんやりとその背中を見送り、やがて足音が遠ざかると、手にした箒を思いきり地面に投げつけた。箒は瀕死の生き物みたいにはじかれ、ロッカーのそばで死んだように止まった。あっという間に静寂は戻り、ちりとりの中で蛍光灯の破片がきらきらしている。まるで無意味に、のどかに、きらきらとひかっている。指を伸ばすとひふがすっとななめに切れた。染岡は顔をあげる。打ち付けた肩がずくずくとうずく。いたい、と思った。いたい。まだいたい。まだいたい。「影野」






イタイヤ
染岡と影野。
波乗りジョースケ。
夏休みは部活以外になにもすることがないので、宍戸はあるける範囲であちこちに出向いた。少林寺とは前からぬうと立った煙突が気になっていた銭湯を見に行って、汗だくになったのでついでにふたりで一番風呂に入りフルーツ牛乳を飲んで帰った。壁山とは池のある公園に行ったり、さるの絵のついた巨大な滑り台のある公園に行ったりした。そこでは下らない話を延々として、日が翳って涼しくなるまでそれが尽きることはなかった。話すことはいくらでもあって、時間は膨大だった。音無とはエアコンの効いた公共施設で、大量に持ち込んだネイルケアのグッズを駆使してお互いに爪をきれいに磨き合う。どんなにきれいなマニキュアをつけても次の部活のときにはぼろぼろに剥がれてしまうのだが、そのくらい潔くてあっけない方が楽でいいと宍戸は思っている。ひとりでなら本屋をめぐって新書の背表紙をずっと眺めている。金がないのでおいそれと買うわけにはいかないが、これとおなじことを栗松がしているのでなぜかやめられずにいる。
よく晴れた日の部活のあと、てつ今日どっかいかね、と宍戸はAg+のシートで腕や首を拭いながら言った。えーと栗松はよく冷やして固く絞ったタオルを顔に当てながら振り向いた。きれいに浮かんだ肩甲骨。なんて?今日おれとデートしよって。やだよと栗松は眉間にしわを寄せた。宍戸は手を伸ばし、汗で浮き上がった栗松の鼻のテープをびっと剥がす。いーじゃん。どーせ暇なんだろ。まー暇だけど。栗松は言葉を濁し、助けを求めるように視線をさまよわせた。少林寺はかばんを肩にかけて、今日はおれ宿題するからとさっさと帰ってしまう。音無は壁山の腕にひしと抱きついて、今日はあたしたちお買い物行くもーんとわらった。あーと栗松はため息をつき、うらめしそうに宍戸を振り向く。今日くらい家にいれば。おれ家すきくねーし。ぐじゃぐじゃとあたまを掻いて、じゃいいよ、と栗松はテープを剥がされた鼻をてのひらでこすった。結局栗松はやさしいのだ。宍戸はにっとわらってカッターシャツに腕をとおす。
洗いざらしたピンクのポロシャツとダメージジーンズは栗松によく似合う。うーすと宍戸は手を挙げた。栗松は待ち合わせの五分前に、ちゃんと最寄りのファミマで待っていた。おせーよと栗松は携帯を尻のぽけっとにしまう。ややサイズがおおきい襟ぐりの開いた七分袖アンサンブルとサルエルパンツ、アイスクリームのチャームのネックレスをつけた宍戸をしげしげと眺めて、おまえよくそんなの着れるね、と栗松は半ばあきれたように言った。ひょろりと痩せてせいの高い宍戸には中性的な格好が似合う。なんだおまえまたこれ貼ってきたの、と宍戸はひとさし指で栗松の鼻のテープを撫でた。栗松は鼻炎持ちで、本当は教室や部室の空気が苦手なのだ。どこ行くの。宍戸の手をべちんと払い、栗松は鼻をこすった。ちょっとぶらぶらしよーぜ。そう言って宍戸はポロシャツ越しに栗松の二の腕を取る。律儀にそれも払われて、宍戸はちょっとわらった。
汗かきの栗松はいくらもあるかないうちに、もうすでに額から汗を流していた。暑いの苦手。うん。栗松はだるそうに額を拭う。おまえ平気。おれ暑いの得意。宍戸はうなじにてのひらを当てる。冬は苦手だが夏はすきだった。汗もあまりかかないし、熱中症にかかったことは一度もない。動物じゃん。栗松はへらっとわらう。変温動物的な。ほれ。宍戸はてのひらを栗松に差し出す。さわってみ。うわつめて。てのひらに触れて栗松は目をまるくする。なにおまえ、すげーな。すげーだろ。うわーと栗松はおそるおそる宍戸のてのひらをほほに当てた。きもちいー。宍戸はもう片手も伸ばして栗松のほほを挟む。あつくちりついた夏の肌。その瞬間、じゃあじゃあと降り注ぐ蝉の声がすべて途絶えたような気がした。栗松が顔をあげて、はっと離れようとする。宍戸は両腕をつかんでそれを止めていた。なまぬるい空気が足元を吹き抜ける。あおい、と、思った。空があおい。こわいくらいに静かに、あおく沈む。
そのまま結局どこへも行けず、栗松は宍戸の数歩前をゆらゆらとあるいている。孤独な散歩みたいな、ひとりきりの徘徊。ふたりの間の何メートルに、気づけば沈黙がすべりこんでいる。呼びかける声さえためらわせる、焼け焦げた静寂が耳を刺す。夕焼けがながくながく影を伸ばし、栗松は振り向かない。ロールアップのジーンズからのぞく足首が筋ばってほそい。腕と顔と膝だけが焼けてあとは驚くほどしろいままのひふと、何度も剥けて分厚くなったかかとの皮。おなじ場所でおなじことを夢見ておなじものを持ちながら、伝える言葉だけをいつのまにかなくしていた。そうやって届くことを選んだのだった。そうしたかったんだと自分に言い聞かせた。宍戸はそっとてのひらを見下ろす。そうやって届くことを選んだんだって。
宍戸はよわくゆるく、ふふふとわらった。冗談みたいに飛び出た鎖骨にネックレスのチェーンがしゃらしゃらと流れている。現実をつないで幻想を捨てても、だぶついた着地点にあしあとはせつなくぶれた。埋まらない溝をつま先でにじって、ないふりをしようとあがく滑稽な自分。あまくにごった夕暮れを融かす涙にも似た空気の向こうで、栗松のうなじがぽかりとしろく透明だった。それだけをもらって宍戸はゆく。ぶれたあしあとを無数に重ね、埋まらない溝に深く沈みながら。栗松が振り向いて、はやく行くよ、と宍戸を急かした。それだけをもらっておれはゆこう。どうにかなると信じていた、信じるに足りた場所を置いて。いつかどこかで思い出し、手に取って眺める日が来るといい。確かになにより幸福だった、あおく燃えていくふたりの日々を。







亀の鞍
宍戸と栗松
バッティングセンターに寄っていこう、と少林寺が言うので、部活の終わった放課後、壁山は厳重に金網にかこまれたボックスの後ろ、タバコのくろ焦げと穴のあるベンチに腰かけている。くたびれた風情のバッティングセンターにはそれでもそこそこ客がいて、壁山の前をよく陽に焼けた高校生が数人通っていった。高校名と名前の刺繍された泥よごれのスポーツバッグを下げ、清潔に剃られた坊主頭をした彼らはそれぞれがほそいバットケースをかついでいる。壁山はなんとなくいたたまれないような気分になって、せわしなくあちらこちらに視線を飛ばした。ほこりのかむったトロフィーが並ぶ棚に、色あせた写真が立てかけられてある。夜のバッティングセンターは煌々とあかるく、サーカスのテントみたいに風景からぽかんと浮き上がっているように思えた。むせかえるような夏の夜。虫の声がかすかに聞こえる。
ぱきぃん、ぱきぃん、とかん高く澄んだいい音があちこちから聞こえて、それは目の前の少林寺がいるボックスからも鳴り響いていた。からからのいちばん軽いバットを手に、少林寺は右のバッターボックスにしっかりと足を踏ん張っている。脇を締めて力強くバットを振り抜くその動作はなかなかに決まっていて、球速九十キロのボールを完全に捉えていた。腕も脚も棒っきれみたいにほそいのに、快調にボールを飛ばす少林寺に壁山は目をほそめる。二塁打は固いだろう痛烈なライナーがネットをばさりと揺らした。からだの使い方が上手なんだな、と壁山は思う。なりはちいさくて女の子みたいだけど、少林寺にできないスポーツはないのだ。
ジャージを脱ぎ捨てた少林寺の背中に、Tシャツが汗でぴたりとはりついている。脊椎のこぶこぶまでを浮かばせる痩せた背中は、ふと見ると特に痛々しい。ふと、それに気づいてしまう、ざらりとした罪悪感。百三十キロまで出る向こうのボックスでは、さっきの高校生がくろいバットを手に肩を回している。なめらかにぴんと張った筋肉を十二分に使う、これ以上に愉しいことはないという顔をして。ぎぃんとひときわ高く鋭い音で弾き返されたボールは、ネットの上の方に貼られたホームラン表示に突き刺さって落ちた。バックスクリーン一直線。完璧なセンター返しだ。壁山のようにベンチで見ていた友人らしい数人が、おおげさなくらいにぎやかに拍手をしている。
ボックスの中からそれを見ていた少林寺が、からんと高い音を立ててバットを落とした。手ぇいたーい。芝居がかった乾いた口調。つま先でグリップを器用に蹴上げて、肩に担ぐように持ち上げる。この前さぁ。ポケットから小銭を出して機械につっ込みながら、少林寺はひとりごとみたいに言った。目金先輩からマンガ借りたの。へー。なんのマンガ。なんか、ボーケン物?っぽいやつ。ピッチングマシンが再度動き出す。おれさー。びゅうびゅうと素振りをしながら少林寺は続ける。本とか読んでおもしろいとか、全然思わないから、さー。やや手元で落ちるボールを器用に流しながら、少林寺は歯を見せてわらっている。表紙だけ見て返しちゃった。へえ。壁山は目をまるくする。らしいなーと内心思いながら、先輩おこった、とたずねる。それがさ、おこんねーの、目金先輩。いいですよーって。なんも言わないし。あー、と憂鬱だかなんだかふかく息を吐いて、少林寺は言葉を切る。ボールの方に意識を向けたいだけではなく、ここから先をあまり言いたくないのだということを察して、壁山はベンチを立った。
ペットボトルのウーロン茶を一本買って戻ると、少林寺は最後の一球をまっすぐに弾き返したところだった。いいとこポテンの、ホームランにはほど遠い、それでも流れ星みたいにきれいな打球。少林寺が扉を肩で押し開けるように出てきた。汗が顔を伝っている。それを手の甲で拭ってやると、照れくさそうに少林寺はわらった。壁山はさ。うん。やさしいよね。えーどうかなー。ああと、目金先輩とかも、やさしいね。そうだね。おれはさ、あんまりやさしくないから。少林寺は痛いような顔をして、まっかになったてのひらを見下ろしている。だから気づかないんだ。全然。ばかだから。壁山は言葉につまる。少林寺がここのところ不調なのは誰の目にも明らかだった。だけどそれに対する原因だの不平だのを少林寺は誰にも言わないし、いっそ虚しいくらいにがむしゃらにプレイし続けるその背中は、痛みを通り越して憐憫さえ誘う。目金はそれに気づいていたのだろうと壁山は思った。苦心して選んだ、励ましだったのだろう。あのひとの中にも葛藤がある。選手としてはなにも言えない葛藤が。
壁山はふと百三十キロのバッターボックスを見た。くろいバットの高校生は、にらむような目でマシンを見ている。友人たちはもういなかった。たったひとりで彼はバットを振る。ホームランはもう打てない。世の中から辛いことや苦しいことがすべて消えて、楽園みたいな世界になったとしたら。きっとあの高校生や少林寺みたいなひとこそ、その世界で生きていくことはできなくなるだろう。喜びばかりをかき集めて幸福を知ったような顔をするひとには目もくれず、絶望の中にひそむ絶対の自由を、彼らは注意深く拾い集めて大切にする。そのために捨ててきたものの数も重さも、彼らは思うことはない。
壁山は濡れたペットボトルを差し出した。ありがとーと少林寺は顔を輝かせる。目金や、そして壁山さえも、少林寺を想っている。そのやさしさを想っている。なにも気づかない鈍感な手で、惜しみなく与える少林寺。ぼろぼろに皮がめくれた傷だらけの手のひらに、本当は持っていないものなんてなにひとつないのだ。むせかえる夏の夜にすだく虫の音が乾かす現実。ぽっかりと不幸で、それでいて幸福なバッティングセンター。少林寺が抱く絶対の自由を、壁山はなによりいとおしく思う。言葉には出さず態度にも出さず、それでも誰よりもなによりも、うつくしくいとおしいと微笑む。







スタテュ・オブ・リバティの肖像
壁山と少林寺。
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