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女性向け11文章ブログ。無印初期メン多め。 はじめての方は「はじめまして」に目を通してください。
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部室に備え付けてある手洗い場の、かどがひび割れて欠けたくすんだ鏡で目を見ていたら背中で扉が開いた。鏡越しにぎょっとした顔の円堂が見える。影野は重たい前髪を押さえつける手の奥にわずか倦怠を感じて、だが目当てのものが見つからないので辛抱強くその姿勢を保った。円堂は目を反らし、スパイクの耳障りな足音が続く。ばたんばたんと背後でロッカーがうるさい。力任せにアルミの扉を閉める音と、鈍い音が数回。誰のロッカーを蹴りつけたやら、自分のでないならそれでいいけれどと影野はあいまいなことを考える。円堂はいつでもなにかに腹を立てている。八つ当たりはそのうちこちらにも飛んでくるだろう、と思った。かがめた膝と腰がだるい。つるりとしたしろい陶器の手洗いの、蛇口の脇で鮮やかなあおい石鹸が半ば乾いて固まり、下の方はゆるんで不健康な色に流れ出している。そのあおい筋を目でなぞった。やっぱりなにかある。
一際おおきな音と不穏な振動に視線を上げて鏡越しに後ろを覗くと、円堂の拳がロッカーの扉にきれいにめり込んでいるのが見えた。部室の奥の、誰も使ってない上に錆びついて扉が開かなくなっていたやつだ。アルミの扉は無惨にひしゃげ、奥へ向けて吸い込まれている。エネルギーの余波が円堂の周りで火花を散らし、鉄臭いいがらっぽい空気が部室を満たした。影野はそっと息を吐く。こういうとき、たとえばやんわりと円堂をいさめていたわる壁山も木野も、逆上して怒り返す染岡も半田も、無責任に煽る松野も怯えた顔で硬直する栗松も、ここにはいない。自分はどうするべきなのだろうと影野は考え、どういう役割が残っているだろうと次に考えた。円堂がロッカーから拳を引き抜く。むだ遣いは。結局口から出た言葉はそんなものだった。よしなよ。円堂は舌打ちをして、蝶番が外れて倒れかかるひしゃげた扉をロッカーの奥へ蹴り返した。円堂のすることと影野の現実とは、いつもだいたい一ミリくらいずれてうまく意識になじまない。
いいのかよ。円堂は忌々しげに言ってベンチにどすんと腰かける。なにが。目。隠してんじゃねえの。あーと影野は宙を見て少し考え、別に、と返す。そう思われていることは意外な気がした。うぜえ髪。バンダナから飛び出した房のような前髪をねじりながら円堂は言う。意味ねえなら切れば。邪魔だろ。影野はちょっと戸惑う。そんなことは考えたこともなかった。なんかあったのか。スパイクを脱ぎ靴下も脱ぎ、足の裏を親指でぐにぐに揉みながら円堂はいかにも興味なさそうに問いかける。ゴミが入った。下まぶたを指で下げながら影野は答える。白目部分がところどころ充血している。まぶたの内側はうっすらと濡れてあかい。からだの内側の肉はどうしてこうもやたら生々しいのか、と思った。転んで膝を擦りむいた目金を助け起こしたとき、傷口から覗いたあの鮮烈な色。そんな前髪でもゴミとか入るんだな。呟く円堂の口の中もこんな色なんだろうかと思った。
影野はまばたきをする。たぶんこの辺のはずだと、忙しなく目を動かしたりまぶたをめくったりしてみる。なんか理由があるのか。円堂は頬杖をついて、感情の読み取れない顔で影野の背中を見ていた。その髪。理由。影野はその言葉を口に出してみる。目を動かしながら。いや、ない。あったような気がするけど、もう忘れた。じゃあなんで隠しとくんだ。円堂の目が鏡の向こうでうつろな穴みたいに開いている。ぽっかりと静かなふたつのブラックホール。必要がないからじゃないかな。鏡の中で瞳孔はふらふらと揺れる。それを追う影野の指先。その言葉に円堂は眉をひそめた。不機嫌な顔だ、と思った。なんで。影野はほほえむ。多くはいらない。少しでいいんだ。円堂は考えるように首をひねり、それは、と言って言葉を切った。続けないでほしい、と影野は思う。それ以上を問われてしまったら。
円堂は結局その先を口には出さず、おれにもいつかサッカーが必要じゃなくなる日が来るかな、と言った。その日が来ることを待ち焦がれ、そのくせそんな日が来ることを一ミリたりとも信じてない口調で。きっと来るよ。影野はしきりにまばたきをする。その日が来たら、捨てればいいだけだ。簡単に言うよな。円堂の言葉はいつも鋭くとがっている。円堂はいつでも腹を立てている。円堂は。影野は思った。思うのと同時に口に出していた。本当はなにも信じてないんじゃないか。言うなり背中に鈍い痛みが走った。スパイクを投げつけられたらしい。あ。影野は声をあげる。見つけた。目尻から飛び出したそれをつまんで引く。引きずり出された髪の毛は長く、影野がそれを引くたびに内側の肉がさわさわとこすれた。スパイクを拾いに来た円堂がゲッとうめく。全部を目から引き出して、押さえていた前髪から手を離す。どさりと落ちる重み。必要でなくなってしまったもの。
影野は湿った一本の髪の毛をつまんだまま振り向く。ベンチに戻って靴下を履き直している円堂が、何故か警戒したような顔で影野を見た。必要なければ、捨てればいいだけだ。言いながら髪の毛をつまんだ指先を開く。落ちていく髪の毛。万年ベンチの影野。円堂がもしも、本当はなにも信じていないのだとしたら、だったらおれと一緒だな、と、言おうとしたことは黙っておこうと思った。おなじ人間。きっちり一ミリの齟齬をもって。円堂の目はブラックホールみたいだった。大切なものは、ふたりとも、ちゃんと奥へと隠してある。捨てていっても恨むなよ。円堂はちらりと歯を見せる。もちろんだ。影野は頷いた。そんなものまで持っていっては、きっと重くて仕方がない。フットボールフロンティアの決勝戦は、はや三日後に迫っている。影野は鞄を肩にかけた。さっき円堂笑ったな、と思ったが、それも口には出さずにおいた。









ハッピーソングの穴
影野と円堂。
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少しだけ快活になったような気がする。そう思いながら栗松はベンチで練習を見ている。視線の先では少林寺がながい髪をなびかせながらおそろしく機敏に動いていて、そこにいてほしい、と誰もが思うであろう場所にぴたりぴたりと足を運んでは貪欲にボールに噛みついていく。小柄な少林寺は単純な力比べや高さ勝負には極端に弱いが、それらを補って余りある瞬発力と天性の勝負強さがあった。チームにひとりはあってほしい類の選手だ。それに少林寺はとても平らかなプレイをする。心の動きが見えないのは強みだ。恐怖や疲労や動揺はなにもしなくても相手に伝わるが、少林寺にはそれがない。実戦的な選手だ、と思う。栗松とは正反対の。パスミスのボールがラインの外に転がって、きゅーけー、と半田が両手をあげる。そのとたん、平らかな少林寺はいなくなり、彼の周りの空気がぴりっと張りつめるのを感じる。それでも少林寺は話しかけてくる新入部員たちに笑顔で応じていた。これも成長っていうのかなぁ、と栗松は思う。
少林寺とはときどき一緒に夕飯をたべるようになった。宍戸はあまり食事をしたがらないので、ふたりとは店の前で別れる。たまにはたべてけばと言って宍戸を食事に付き合わせた帰り道、彼はトイレで長々と吐いていたので、ふたりとももうそれ以上は誘わなくなった。その代わりと言ってはなんだが、少林寺と夕飯をたべない放課後には、栗松は宍戸と必ず一緒に帰るようにしている。商店街の奥の方にあるのり月という蕎麦屋が目下ふたりの気に入りで、少林寺はここに来るといつも鴨なんばんをたべる。逢い引きみたいだな、と、とろろ月見をぐるぐるかき混ぜながら栗松は思った。ねえ。なので店主が奥に引っこんでいることを確かめてから口に出してみる。逢い引きってわかる。アイビキ?少林寺は口の中身をきちんと飲みこんでから、眉間にしわを寄せた。小柄だがよくたべる少林寺は健やかだ。とても。アイビキって、あの?あの、というのが少なくとも肉を指しているわけではない、ということはわかったので、栗松は頷いた。
怒るかな、と思ったが、少林寺は少し考えるような仕草をして、さして嫌そうでもなくうん、と言う。栗松がそう思うならそうなんじゃない?まじで、と栗松はまばたきをした。え、おれ、そういう対象?違うだろ。少林寺は冷たく言う。おまえにとっておれがそういう対象なんだろ。あーうん、えー、どうかなー。ごにょごにょと言いよどむ栗松をまた冷たく一瞥し、そういうのやだな、と少林寺はひとりごとみたいに言った。少林寺の言葉は、どんなものでもともするとひとりごとみたいに響く。つるんとして、取っ掛かりがない。少林寺は今、年上の、ちょっとかわいい先輩に絡まれている。しかも三人も。ぎりぎりまで短くしたスカートの、ちょっとだけかわいい三人組。今日も部活を見に来て、少林寺だけを見てはしゃいでいた。少林寺はずいぶん明け透けできわどい言葉で彼女たちから誘われているらしい。
しょーりんはさ。箸を止めて栗松は言う。すきなやついるの。鴨なんばんをすすろうとしていた少林寺は、ちょっとだけ驚いた、という風に栗松を見て、栗松がまじめな顔をしていたので、また顔を前に戻した。手を止めて。いるよ。栗松は安心する。会えなくて寂しい?そう言ってしまってからあーしまったと思った。まるでもうわかってるから言ってしまいなよ、みたいな言いぐさだな、と思ったからだ。栗松、スゥァンね。少林寺はみじかい沈黙を挟んでそう言った。なぜか栗松は赤面する。なんとなく意味は伝わった。なんとなく、だけれど。寂しくないよ。それから少林寺は首をかるく曲げながら言う。おれがいなくても平気だから。どういうこと?思わず問いかける栗松に、栗松なにが言いたいの、と少林寺はうんざりした口調を投げつけた。あ、ごめん。怒らないで。栗松はへどもどと謝る。少林寺の目がじっと栗松をにらんでいる。なんか今日変だよ。ごめんって。言葉を濁して栗松はとろろ月見に向かう。
そして横目で隣をうかがう。少林寺の横顔のまっしろなほほとちいさな鼻とうすい唇。清潔な横顔。清潔なのはいいことだ。少なくとも。栗松は思う。泥の中で進退極まる自分なんかよりは、百万倍もいい。ばか。心の中を見透かされたような少林寺の言葉に栗松はどきりとする。なに。少林寺は平然と、叱ってほしそうに見えたから、と答えた。たとえばまだみんな一緒にサッカーをしていた頃、その頃とてもすきだった、と言えば。少林寺は驚くだろうか。怒るだろうか。(そんなことを思いながら、どっちでもない、と栗松は考える。驚きも、怒りもしない代わりに、)少林寺の言葉はいつでも栗松のいちばん深い場所を容赦なく刺す。帰ろう。少林寺は唐突に言った。奥からバナナマンの設楽に似たおやじがのそっと出てくる。楽しかったね、アイビキ。外に出るともう空は藍色に沈んでいた。少林寺はちっとも楽しくなさそうにそんなことを言う。ひとりごとみたいに。「栗松はおれがいないとだめみたいだね」
それは果たしてわるいことなのだろうか。
帰る途中に少林寺にくっついてみた。くっついているとしあわせだった。少林寺は前みたいに冷たい声で冷たいことを言った。少林寺は栗松の前ではちっとも快活でない。逢い引きは楽しかった、と思う。ふたりでいると楽しくて、満たされる。それは果たしてわるいことなのだろうか。今はもう、彼が眩しいばかりでないという、そんなことは。








だつたん
栗松と少林寺。
「世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。」
そんな一文ではじまるとある小説のことを思い出しながら、栗松は闇に沈む窓の外を眺めていた。うつろな目をした自分ががらすに映りこみ、その向こうには星も見えない。どこの海の上を飛んでいるやら、飛行機は暗闇の中ぽつんと光る唯一の発光体として、たったひとりの乗客を乗せ日本への航路をなぞっている。ビーナス・クリメード・オービター、のようだなと思った。飛び立てば帰ってこられない、という点だけが、その意味をゆるやかに繋ぐ。気圧の変化が栗松の耳や鼻をふさぎ、傷の痛みを倍増させたのは一時間も前のことだ。座席を限界まで倒し、そこに毛布だのなんだのを山のように重ねて、怪我人が精一杯足を伸ばせるようにしてくれたのは、今は管制室で計器とにらみ合いをしているだろう古株だった。少し眠るように言われたが、栗松はずっと窓の外を見ていた。あと何時間か後には、東京タワーならぬあの古ぼけた鉄塔が、雨に濡れてもいないのに世の中でいちばんかなしい景色として栗松の前に現れてしまう。
そもそも、そんな大それた望みを持っていたわけではなかった。栗松は乾いた目をごまかすようにまばたきをする。世界を相手に戦おうだなんて、そんなことを望んでいたわけではなかった。世界という大きすぎる舞台には、自分のような臆病者ではなく、もっと適任がいくらでもいたはずだ。もっと勇敢で、もっと力強く、もっともっとその場所を望んでいたものが、数えきれないくらいに。選ばれてしまったからにはと、栗松も彼にできる最大の努力で、自分の足元に散っていった多くの選手たちに報いようとした。しかし世界で栗松にできたことはあまりにも少なく、そのくせ代償は高くついた。怪我と実力不足による離脱が告げられたときに見た仲間たちの哀れむようなあの目は、栗松の心の底をごっそりとえぐった。毛布を喉元まで引き上げながら、栗松は額を掻く。どんな顔で戻れというのだろう。一時的に自動飛行にしているらしい古株が顔を覗かせ、栗松は慌てて寝たふりをする。情けない、と思った。なにもかも、どうしようもなく。
空港にはえらく手持ち無沙汰という感の宍戸と少林寺が迎えに来ていて、松葉杖で歩いてくる栗松を見て、おーす、とふたり同時にさして嬉しそうでもなく手をあげたりした。そのまの抜けた調子にいたたまれなさを削がれて、栗松は妙に救われる。まつばづえー。宍戸は変なイントネーションでそう言ってから、あーもーちょー会いたかったんすけど、と真顔で言った。とたんに正面からぬるりと抱き止められて栗松は辟易する。おかえり。こちらはいつも通りの少林寺が、いつの間に受け取ったやら栗松の荷物を重たそうに下げていた。あ、持つ。いいよ。宍戸持って、と少林寺は宍戸を小突くが、おれ今両手ふさがってるからムリムリと宍戸は取り合わない。なんだかなぁと栗松は宍戸の骨っぽい腕の中で身をよじった。空港の大きな窓の向こうに、色鮮やかなイナズマジェットが見える。古株が近づいてきて、少林寺になにやら言付けていた。外国の匂いがする。宍戸がまじめな調子でそんなことを言う。
学校にはその三日後に行った。部活にも。なぜか松野に頭をグーで殴られたが、それ以外はいたって平穏で栗松は安心する。半田は栗松が戻ってきたことを手放しで喜び、影野は言葉少なに怪我を労った。顔ぶれは変わっていて、見たことのある顔もない顔もあった。闇野が部室の隅の方からとげのある視線を投げてくる。久しぶりに練習見ていけよ。半田の言葉に栗松は首を横に振る。しばらく病院通いでやんす。あそうか。半田は困ったような顔をする。まぁ時間あったら顔出せ。待ってるから。送ろうかという影野の申し出を断り、栗松はひとりで部室を出た。病院で診察を受け、その足で河川敷へ向かう。今日はクラブチームの練習もないらしく、閑散としたグラウンドに白線が消えかけている。雨ざらしで埃っぽいベンチに腰かけ、栗松はため息をついた。生まれ育った街が今や他人のように思える。学校も、部室も、先輩も、同輩も。夕日にあぶられた背中があつい。世の中でいちばんかなしい鉄塔が、栗松の視線の先に黒々とたたずんでいる。
見放されたのはどちらだろうと思った。傷ついて、傷つけられて、どちらが多くそれをしたのだろうと思った。空っぽの天秤を見ながら栗松はわらう。誰も望まなかったから、栗松は今ここにいる。絶望はいつでもサッカーの形をしていた。それは栗松からたくさんのものを奪った。栗松はまばたきをする。あとはなにがある?残ったもので、自分にはなにができる?ゴールの近くにボールがひとつ転がっている。栗松は立ち上がり、足を引きずりながらそこへ向かった。砂まみれのボールを拾い上げ、地面をひとつ叩いた。誰も望まなかったから、せめて自分だけでも、望んでも構わないだろうか。強くなりたいと、もっと強くなりたいと、望んでも構わないだろうか。絶望はサッカーの形をしていた。世の中でいちばんかなしい場所で、栗松は誰にも望まれずにその道を断たれた。それでも。それでも。それでも。
そのとき宍戸はじっと栗松を見ていた。溝を埋めてるんだよ。傍らで少林寺が呟く。行っちゃだめ。わかってる。宍戸は投げやりに言った。栗松は気づいているのだろうかと思う。栗松がサッカーと向き合うとき、サッカーのことを考えているとき、誰にもなにもできないくらいに寂しい背中をしていることを。その溝を必死で埋めて、また新たな溝を作って。栗松はいつもひとりきりであがいている。宍戸は目を反らせなかった。少林寺もまた、栗松を黙って見つめる。行けど帰れぬビーナス・クリメード・オービター。ふたりにとって世の中でいちばんかなしい景色がそこにあった。









明星
栗松。
そのときの栗松の顔が、記憶の中でもあまり落胆していなかったことを思い出しては目金は安心する。怪我による離脱を余儀なくされた栗松は、それを告げられてから島を発つまでの三日間、それなりに忙しい日々を送った。ごまかしきれないほど悪化していた足の怪我は、あの試合だけが原因ではなく、どうも酷使しすぎた末の疲労骨折に近いものだと診断され、病院で栗松は自分のレントゲン写真を他人のもののように眺めていた。傍らで久遠が苦い顔をする。きっとまたひとりでこっそり特訓していたんだろうと、付き添いに同行していた目金は思う。ぼくに隠れて。目金はいやが上にもキャラバンでの旅の最中、彼がながい時間をかけて身につけたに違いないあの技を思い出す。栗松は人前ではなにかと手を抜きたがるくせに、誰も見ていないところでは絶対にそれをしなかった。あの技は目金にとって因縁の技だ。完成したら絶対に自分が名前をつけるんだと意気込んでいたのに。まっかに腫れ上がりいびつに曲がった栗松の足首は、惜しげなく陽の差す病院でひときわ痛々しい。
一年生たちの抗議にも染岡の叱咤にもうわの空だった栗松は、久遠の下した決断に驚くほど素直に従った。怪我を見事に乗り越えた吹雪がすでにそこにいてしまったことも、その理由のひとつとしては大きかっただろう。離脱を告げられたそのあと、栗松は壁山に寄りかかるようにくずおれた。音無が引きつったような悲鳴を上げ、珍しく動揺を見せた久遠がすぐに栗松を病院に連れていった。日本に戻るか。検査結果を見た響木が、やわらかい口調で栗松のあたまを撫でる。ここじゃのんびり休めんだろう。栗松は目をまるくし、顔色をうかがうように久遠を見上げた。頷く久遠を見て、そしてちらりと目金を見て、少し考えさせてほしいと栗松は答えた。想像以上の怪我に驚いていたのかもしれない。目金はそのとき栗松の後頭部をじっと眺めていた。うなじからあたまの中途まで刈られた栗松の後頭部はすんなりとまるくてとてもきれいだ、と思う。
少し考えさせてほしいと言ったわりに、栗松は宿舎にたどり着く前にはもう日本へ戻ることを決めてしまった。久遠はわずか痛ましいような顔をして栗松を見て、手続きがいろいろあるから数日はこちらにいてもらうことになる、というようなことを言い、栗松はそれに頷いた。マンガ返さないと。栗松は感情の読み取れない表情でぽつりと呟く。いいですよ。目金は思わず答えてしまい、その声を聞いて栗松は驚いたように目金を見た。持っててもいいですよ。栗松はまばたきをして、なにを、といぶかしげに問いかける。目金は困って言葉を濁した。こんなことが何度かあった。手続きというのは、選手登録の書き換えだったり、協会への医療費の申請だったり、学校に出す課外活動による単位認定証明書なんかをこまこまと書いたり面談したり、といったものだった。怪我人の栗松はそれでもあちこち動き回ってよく働いていた、と目金は思う。
しかし栗松の受難はここからで、栗松が日本に戻るということを聞いて怒り狂った円堂がそれをもたらした。栗松は目金と同室だったが、円堂は栗松が帰国するまでの間、遠慮会釈もなく部屋に押しかけ、目金を外に蹴り出して何時間でも怒鳴り散らした。片付けた栗松の荷物をすべてひっくり返してしまったこともあった。円堂が部屋を出ていったあと、目金がそうっと部屋を覗くと、嵐の後のような惨状を見せる部屋のまん中に、栗松は呆然と座って宙を眺めていた。目金はその傍らに立つ。栗松は腫れたほほをしていた。目金は泣きたくなる。円堂くんを。それだけ言って言葉をなくした。円堂の気持ちが、なぜだか目金には痛いほど理解できた。栗松はのろのろと手を上げて、ぶたれたのだろうほほに触れる。大丈夫。うわごとのような栗松の声はかすれていた。キャプテンを、嫌いになったり、しません。そう言って栗松はうつろにわらう。目金は羨望する。羨望する自分にひどく後悔する。
円堂が言いたいことをもう栗松はわかっているんだろう、と思った。栗松はやさしい。だからこそ、円堂の言葉は彼には届かない。わがままだ。栗松は立ち上がろうとして、バランスを崩す。目金はとっさに手を伸べて栗松の腕を掴んだ。栗松はうなだれ、うつむいたままほほえむ。キャプテン、おれがまだがんばれるって、本気で思ってるのかな。打ちのめされたその声に、目金は奥歯を噛みしめる。みんな勝手だ。気づくと目金は栗松のからだを思いきり抱擁していた。突然のことに栗松はすくみ、目金から逃れようともがく。しかし目金は渾身の力で栗松にしがみついていた。そうしている限り栗松は帰らなくて済むのだと、そんな夢のようなことを信じるように。もつれるように床に倒れ、あたまや脚をあちこちぶつけながら、それでも目金は栗松から離れなかった。絶対に離さないと決めていた。円堂が言葉を尽くしたなら、それ以外のことで伝えたかった。嫌だ、と、ただそれだけが言えるなら。ただそれだけが伝わるなら。
満身創痍の栗松は目金に押さえつけられたまま疲弊し、そのうちに半端に開いたカーテンとその向こうのやわらかな夜を見ながら、ただ息を整えるばかりになった。月がきれいですね。先に口を開いたのは目金だった。栗松はわずかの沈黙を挟み、日本の月もきれいです、と答えた。ライオコット島の満月は、わずかに桃色がかって果物のようにつつましくまるい。目金はゆっくりとからだを起こし、栗松の手を引いて立たせる。片付けは明日にしましょう。そう言って目金はさっさと栗松のベッドに潜り込んだ。栗松が隣にそっと入ってくるのを背中越しに感じる。嫌いにならないでください。それだけを言うと、努力します、と栗松は答えた。目金は首をひねって栗松の後頭部を見る。すんなりとまるくきれいな形をしたそこを見ながら、どうしてこんなに悲しいのか、今さらながら目金はその答えに気づきはじめていた。日本の月がどんなにうつくしくても、今日ここでこの月を見たのはふたりだけだ。世界最後の夜に比べても、なにひとつ劣ることはない。
目金の枕元にはいつの間にか貸していたマンガがきれいにつくねられていて、それに気づいたのは栗松を見送って宿舎に帰った、そのときだった。目金はそれに手を触れなかった。栗松がそうしてくれたなら、そのままにしておきたかった。嫌だ、と、言えればよかった。そう思った。嫌いになってもいい。きみがいてくれたらそれだけでよかったのに。きみがいてくれたら。きみさえ、いて、くれたなら。










月までぼくらは
目金と栗松。
一之瀬の吐息が電話越しにまるく膨らむのを聞いて、ああもう終わりなんだ、と予感した。じゃらじゃらぶら下げたストラップたちのうち半分くらいは彼と無理やり共有したもので、突然その重みがぷつんととぎれたみたいな空白が携帯を持つ手の奥の方をちりつかせる。行くよ、と一之瀬は言った。それはつまりもうリカのところには戻らないということで、なんとかしてやさしくもわかりやすい言葉を選ぼうとした一之瀬の、彼には似つかわしくないばか正直な苦悩がにじんでいた。やっぱりおれにはサッカーが必要だ。一之瀬はそう言って、ぐす、と洟をすする。ばかみたいだ。リカはベッドに横になって、涙が鼻の稜線をまっすぐに横切り耳にまで流れていくのをじっと感じていた。納得ずくなのに、どういうわけか涙が止まらない。それは一之瀬も同じことだったらしく、べしゃべしゃに濡れそぼった声でリカぁ、とリカの名前を呼んだ。なんか言ってよ。おれひどいやつみたいじゃん。ひどいやつだ、と思ったけれど、リカはのどにうんと力を込めてわらった。ダーリン、あいしとうで。
必要なのはサッカーなんかじゃ全然なくて、一之瀬が本当に欲しがっているのはあの子だけだ。その夜は泣くまい泣くまいと思いながら布団の中でだらだらと泣き明かし、翌朝のまぶたやほほをまっかに腫らしたリカを見て塔子はあかさらまにぎょっとした。リカ!言うなり塔子に抱きすくめられてまぶたやら鼻やらほほやらにさんざん口づけをされ、もう平気なのになぁとそんなことをリカはうすぼんやり考えていた。もー大丈夫やってと言う前になぜか塔子まで泣き出してしまい、リカは結局塔子に本当のことを言わなかった。リカを抱きしめて離さない塔子の腕はひどくあつく、たった一度だけ、一之瀬がそうしてくれたときの記憶が煮溶かしたように曖昧になる。あのたった一度を、リカは昨日まで宝物のようにしていた。昨日までは。べそべそと泣き続ける塔子の背中を撫でてやりながら、まるで全く違う人間になってしまったみたいなみたいなすかすかの自分を、リカはわけもなく苦しいと思った。
どこがすきだったんやろー。飛行機の中でぽつんとこぼした言葉に、なにがぁ、と塔子は生返事しかよこさない。窓の向こうでは空と海がまっ平らに重なってどこまでもあおい。目が痛くなるのでリカはなんとなく飛行機の規則正しい座席を眺めていて、それがキャラバンの座席を思い起こさせてあまりいい気分ではなかった。少なくとも、嫌われてはいなかった、と思う。でもあのころから確かに、一之瀬のいちばんはずっとあの子だった。あの子だけだった。一之瀬からの電話を切ったあと、すぐに土門から電話がかかってきた。土門は平気な声で適当なことをちゃらちゃらとしゃべり、リカの相づちの文句が尽きるころ、唐突にまじめな声をして、おれとつきあって、と言った。いややわーそういうボケはウチすきちゃうで。いやいやまじで。な。一之瀬がさリカにちゃんと言えたらおれも言おうと思ってたの。フラれ待ちか。うーんまぁそうなるね。土門は乾いた声でわらい、だから泣くなよ、と言った。考えといて、とも。ものすごくやさしい声で。
リカ。窓に貼りついたままの塔子がぽつりと言う。やめときなよ。リカは目を丸くする。なにが。塔子は首をかしげ、わかんないけど、と前置きして、あたしリカのことすきだよ、と言った。あたしが男だったらリカのこと絶対離してやらない。リカはくちびるを曲げる。女相手に殺し文句かいな。さびしいやっちゃな。でもほんとにリカがすきなんだよ。あー嬉しい嬉しい。おおきにな。わかってないなぁと塔子はムッとしたように言う。わかっていた。塔子の言葉は本気だった。あのときの電話越しの土門の言葉も。そして、泣きながら聞いた一之瀬のさよならも。一之瀬のどこがすきだったのか、今ではうまく思い出せない。それでも一之瀬はリカの光だった。なによりまばゆく輝く、かけがえのないものだった。リカ。塔子が振り返る。ねえリカ。塔子の腕が伸びてきてリカの髪の毛に触れた。リカ。わけもなく、どうしようもなく、ただ一之瀬がめちゃくちゃにすきだった。すかすかのリカの中に、その衝動だけが今も息づいている。
リカは腕を伸ばして塔子を抱きしめた。先を越された塔子の腕がリカの背中を強く抱く。幾千の言葉より、たった一度、こうして触れあって、そうでないと届かないものがある。一之瀬が抱きしめてくれたときのことも、今のリカには思い出せない。なのに。それなのに。リカはわらう。確かに一之瀬のことをとても愛していた。あのときは、間違いなく。ヘーキやで。全然ヘーキ。リカはわらう。あなたがいなくて(あの子を選んで)平気だなんて。諦めたふり。かなしくないふり。強いふり。全部でわらう。わかってた。わかってなかったのはわかりたくなかった自分。わかっていたのに。一之瀬にはあの子しかいなくて、だから。塔子が腕に力をこめるので、ねじ切れた心臓でリカはわらう。わたしはあのときからずっと、ずっとずっとずっと、あなたのために、愛するあなたのために、なにもかも投げ捨てて死ねる朝を探していたのに。










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無印雷門4番と一年生がすき。マイナー愛。

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